Stanley Kubrick(IMDb) ●生誕からプロカメラマンとして過ごしたニューヨーク時代(1928-53) 1928年(0歳)、7月26日にニューヨークのブロンクスで開業医の息子として生まれたキューブリックは、13歳の誕生日に父からカメラを贈られる。若いキューブリックを惹き付けたのは、チェス、ジャズドラム、そしてカメラだったが、特にカメラには夢中になり、学校の成績などおかまいなしに写真部の活動に熱中したようだ。 1945年(16~17歳)、16歳の時、ルーズベルトの死を知らせる新聞を、悲痛な表情で読んでいる新聞スタンドの売り子の写真が、写真報道誌「ルック」誌に買い上げられる。また、その後も何点か同様に買い上げられる。この事により、授業そっちのけで、より一層写真に夢中になったキューブリックだが、ハイスクールはかろうじて卒業できたものの、成績不振のために志望の大学には進めなかった。だが幸運にも、前出の「ルック」に見習いカメラマンとして入社できることになり、以来4年半もの間、アメリカ国内やポルトガルなどを飛び回り、ジャーナリストとして様々な経験を積む。そのことは、その後の彼の映画のスタイルを決定づけたと言われている。 1947年(18~19歳)、本格的に映画監督を志すようになったキューブリックは、まず手始めにニューヨーク近代美術館で過去の名作を、街の映画館では最新の映画を片っ端から観てまわった。映画に関する書籍も読みあさっり、特にプトキンの『フイルム・テクニック』と、ニコライ・M・ゴルチャコフの『スタニフラフスキーが演出する』には大きな影響を受けたようだ。また、この頃単発飛行機の免許を取得する。 1948年(19~20歳)、 ハイスクール時代の同級生であったトーバ・メッツと結婚、グリニッジ・ビレッジに新居を構える。また、「プロボクサー」と題された一連の取材と撮影を担当する。これは当時24歳のボクサー、ウォルター・カルティエの試合当日を追ったフォト・ドキュメントで、この取材は翌年ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』として結実する。 1950年(21~22歳)、ルック社を退社し、自己資金で初めての短編ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』を製作、RKO=パテに4000ドルで売却する。RKO=パテは今度は逆にキューブリックに1500ドル融資し、短編ドキュメンタ...