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【関連記事】「十代のキューブリックがニューヨークの地下鉄であなたの祖母を密かに撮影したのでしょうか?」キューブリックのルック社時代の写真『地下鉄シリーズ』、新たに18枚のプリントが見つかる

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写真集『Through a Different Lens』に掲載された『地下鉄シリーズ』。これによるとルック誌掲載は1947年3月。キューブリックは当時18歳。  あり得る話だ。『博士の異常な愛情』の監督となる人物が撮影した、新たに発掘された膨大な数の写真には、17歳のキューブリックが夜をどのように過ごしていたかが写っている。コートの下にカメラを忍ばせて。 ベンジャミン・スヴェトキー 著  たいていの場合、10代の少年がコートの下に隠したカメラで地下鉄内で見知らぬ人をこっそり撮影していたという話を聞くと、最後は誰かが交通警察に連行されるという結末を迎える。  しかし、この場合、そのティーンエイジャーはスタンリー・キューブリックだった。そして、彼が1946年にニューヨーク市の地下鉄を深夜に乗車中にこっそり撮影した写真が、80年ぶりに日の目を見た。ロサンゼルスのギャラリーオーナー、ダニエル・ミラーが最近入手した400万枚の写真アーカイブの中に埋もれていた18枚のヴィンテージプリントだ。  「アーカイブを漁っていたら、どこかに『サブウェイズ』と走り書きされた小さな封筒を見つけたんです」とミラーは回想する。「開けてみたら、『これは本当に面白いものだ』と思いました。」  確かに。これらの写真は、キューブリックがカメラを構えた初期の作品として知られているもので、彼がわずか16歳か17歳の時に、ルック誌の依頼で撮影されたものだ。ルック誌は1945年、後に『博士の異常な愛情』や『2001年宇宙の旅』の監督となる彼を、当時最年少の専属カメラマンとして採用した。   もちろん、ミラーが最初に封筒を開けたとき、彼は上記のことについて何も知らなかった。  「ChatGPTに写真を入力して、誰が撮影したのか検索してみたところ、全く違う写真家が出てきたんです」と彼は言う。しかし、ミラーは何か重要なことに気づいてはいるものの、それが何なのかはまだ分からなかったため、諦めずに調査を続けた。「何人かの人や他のギャラリーに送ってみたところ、十分な調査の結果、ついに写真の本当の撮影者が判明したんです。」  今思えば、誰が彼らを撮影したのかは明白だ。「キューブリックは物語性を重視する監督で、これらの映像には多くの謎が隠されている」とミラーは言う。「この人たちは地下鉄で一体何をしているのか...

【関連動画】キューブリックが憧れたスクープカメラマン、ウィージーにインスパイアされた映画『裸の街(The Naked City)』の全編がYouTubeにて公開中

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  ジュールズ・ダッシン監督、バリー・フィッツジェラルド、ハワード・ダフ、ドロシー・ハート、ドン・テイラーらが出演した1948年公開の映画『裸の街(The Naked City)』。この映画は事件現場の血なまぐさいスクープ写真を発表していたウィージー(本名アッシャー・フェリグ)の写真集『裸の街』にインスパイアされたもので、ウィージーはビジュアルコンサルタントとして製作にも協力しています。そのウィージーのファンだった、当時ルック社の若きカメラマンのキューブリックはこの映画の撮影現場を訪れ、取材写真を撮影しています。  その後映画監督になったキューブリックは、『博士の異常な愛情』のスチール写真撮影のためにウィージーを招聘、ついに憧れの人と一緒に仕事をすることになったのですが、オーストリア出身のウィージーのドイツ語訛りの英語は録音され、それをピーター・セラーズが真似てストレンジラブ博士のキャラクターが出来上がりました(ウィージーのインタビュー動画は こちら )。  ところでこの映画、キューブリックのフィルム・ノワール『非情の罠』製作に影響を与えたかもしれません。映画をどうしても当てたかったキューブリックにとって、この『裸の街』が大ヒットしたこと。撮影がニューヨークで行われ、その現場を取材していたことなどがその根拠です。もちろん証言はありませんので推測の域を出ませんが、当時資金もコネも何もないキューブリックにとって、身近な題材で、慣れ親しんだ街で撮影できるテーマやジャンルを選んだとしても何の不思議もないと思います。  その写真集『裸の街』を紹介した動画は以下をどうぞ。キューブリックの写真集『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』(詳細は こちら )と比べてみても、やはり影響は感じられます。キューブリックはダイアン・アーバスの影響云々とよく言われるのですが、キューブリックがカメラマンだった頃はアーバス夫妻は売れっ子の単なるファッションカメラマンでしかなかったのでそれは間違いです。キューブリックの志向(嗜好)に合致するのは断然ウィージーだということがこれでよくわかりますね。

【関連記事】ルック社時代、上司だった著名なフォトジャーナリスト、アーサー・ロスシュタインが撮影した入社したてのキューブリックのポートレート

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アーサー・ロシュタインが撮影した17歳のキューブリック。当時まだ目は悪くなかったはずで、メガネはふざけてかけたものだと思われる 〈前略〉 キューブリックの写真スタイル  ルック誌のカメラマン見習いとして働き始めた最初の6か月間、キューブリックは同誌のより経験豊富なカメラマンから指導を受けた。その指導者の1人がアーサー・ロスシュタインだった。1978年のインタビューでロシュスタインは「年配のカメラマンにとって仕事で得られる最大の満足感は、若いカメラマンが何かを達成するのを手助けすることです。私はキューブリックがルック誌の専属カメラマンだった初期の頃、彼を助けました」と語っている。 フォトエッセイ   ロシュスタイン の著書「フォトジャーナリズム」によると、この雑誌には6段階のフォトエッセイ制作プロセスがあった。写真家は、写真編集者からストーリーを割り当てられると、プロセスの第3段階に参加することになる。写真家はアイデアを提案できるが、通常は自分の能力と好みに基づいてフォトストーリーが割り当てられる。  プロセスの第4段階では、写真家とライターが現場に出向き、記事用の写真を撮影します。  撮影現場に出発する前に、写真家は編集者と撮影内容について話し合い、撮影台本を含む被写体に関する情報を受け取ります。  ルックは、作家が写真家と協力して物語を完全に理解することが重要だと信じていました。作家は視覚的に考えるよう奨励され、脚本を準備する際には、写真家が物語を捉えるのに役立つ主題や設定に関する情報をすべて盛り込むように指示されました。  この雑誌は、写真家たちに、表現力豊かな孤立した写真ではなく、フォトエッセイや物語性のある連続写真の制作を求めていました。原稿から逸脱することが頻繁にあったため、写真家たちは柔軟に対応する必要がありました。  この撮影アプローチは、キューブリックの映画人生を通じて貫かれました。後のインタビューで彼は「最後の瞬間に適応できること」と、たとえ脚本の弱点が露呈することになったとしてもチャンスを活かすことが重要だと語っています。 報道を受ける   ロスシュタイン の本では、撮影範囲の重要性についても触れています。『ルック』は実際の記事よりも写真に重点を置いており、キューブリックを含むスタッフカメラマンは、雑誌の美術部門に記事のレイアウトに幅広い選択肢を...

【関連記事】ルック誌1948年5月号に掲載された「カメラマン スタンリー・キューブリック」の紹介記事

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ルック誌1948年5月号に掲載 19歳にしてベテランカメラマンとなったスタンリー・キューブリックは、若さを熱意で補う  コロンビア大学の著名な教授陣や役員たちは、押し付けられることに慣れていなかった。では、この10代の下っ端の若者が彼らに何をすべきかを指示されるとはどういうことなのか?  経験豊富なカメラマンなら誰でもそうであるように、スタンリー・キューブリックは自分が何を望んでいるのかを正確に知っていた。要人たちのいらだたしいつぶやきも、この物静かで茶色い目をした若者を動揺させることはずっと前からできなかったのだ。2週間、スタンリーは大学のキャンパスで仕事に精を出し、25ページから33ページにかけてドン・ウォートンの記事に掲載されているコロンビアの素晴らしい写真記事を撮影した。  19歳のスタンリーは、ルック社の写真スタッフとして2年の「ベテラン」である。そして、1946年にブロンクスの高校を卒業する前から、彼は実直に撮影した写真をルック社に売っていた。  スタンリーがスタッフに加わると、同僚の写真家たちは、彼が仕事に集中していることにすぐに気づいた。友好的な協力の精神で、彼らは「スタンリーを育てる会」を結成し、スタンリーに鍵、メガネ、オーバーシューズ、その他の雑多な小物を忘れないように注意するよう呼びかけた。  この緩やかに組織された顧問団の微妙な影響により、この若者の服装の好みも明らかに変化した。かつては10代のトレードマークであるサドルシューズ、ラウンジジャケット、スポーツシャツを好んで着ていたスタンリーは、今ではグレンチェックのビジネススーツと白いシャツを好んでいる。  しかし、写真への熱意は変わらない。余暇にスタンリーは映画撮影法を試し、ドキュメンタリー映画を制作できる日を夢見ている。  この若者はこれからも鍵を忘れるかもしれないが、写真に関しては、スタンリーは成長するのに助けを必要としないのだ。  この頃からキューブリックはキューブリック、ですね。天才と言われる人は誰しもそうだと思いますが、キューブリックも集中力と観察力がずば抜けていました。その反面、鍵を忘れるなど簡単な行動でポカをしてしまう、というのも天才肌の人でよく聞くエピソードです。  服装についてはキューブリックは無頓着だったので、周りの大人が言うことを素直に訊いていたのでしょう。天才肌だが素...

【考察・検証】キューブリックが多テイクなのは、ルック社カメラマン時代にルーツがあるのでは?という考察

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1949年、ルック社カメラマン時代のキューブリック。 Stanley Kubrick(wikipedia)   キューブリックが映画監督になる以前は報道カメラマン(正確には写真誌カメラマン)だったのは有名な話です。当然ですが使用するカメラはムービーカメラではなくスチールカメラで、主にローライフレックス(詳しくは こちら )を好んで使っていて、写真集『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』(詳しくは こちら )に掲載されている正方形の写真は、ほぼローライで撮影されてものと考えて良いでしょう。  スチールカメラマンが被写体を撮影する際、それがヤラセであれ、ドキュメントであれ、ワンカットしか撮影しないということはありません。必ず複数テイク撮影します。理由は「その瞬間」のベストを求めてということもありますが、絞りを変えてみたり、ライティングやアングル、レンズやフィルターを変えてみたりと技術的な問題もあるからです。キューブリックはルック社時代に「ブツ撮り」もしていますが、どんな簡単な撮影でも露出を変えて数カットは撮影しています。  もちろんキューブリックの存命時はデジカメはありませんので、写真の仕上がりはフィルムの現像が終わり、ベタ焼き(フィルムを大きな印画紙に並べて現像すること。現在で言うところのサムネール)を見るまでは判断できません。この段階になって複数のテイクの中からベストのテイクを選び、ネガを印画紙に大きく焼き付けて、そのプリントを印刷に回すというのが写真誌制作のプロセスになります。  以上のように、キューブリックにとって撮影とは「数多くテイクを撮ってベストのカットをチョイスする」というのは「当たり前の行為」だったのです。ところが映画を撮り始めた当初はテイク数は多くありませんでした。キューブリックは「最初の頃は映画界の古い慣習に従うしかなかった」という旨の発言をしていますがそれだけではなく、予算も時間も限られる中、スチール写真のように「複数テイクを撮ってベストのカットをチョイスする」という行為が現実的に、立場的に難しかったのだと思います。  それが変化するのは『ロリータ』の頃からです。『スパルタカス』で業界内で一定の地位を確保し、それまでの借金生活(パートナーのハリスにお金を借りて生活してい...

【ブログ記事】キューブリックの二番目の妻、ルース・ソボトカが出演した前衛映画『金で買える夢(Dreams That Money Can Buy)』にキューブリックとトーバ・メッツがエキストラで参加

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キューブリックの左側にいるのがトーバ・メッツ 映画の男と同じポーズをとる芝居をするキューブリック キューブリックとルースが「共演」したシーン  キューブリックの二番目の妻、ルース・ソボトカがキューブリックと結婚前、画家兼映画監督ハンス・リヒターの前衛映画『金で買える夢(Dreams That Money Can Buy)』に出演していたことは以前 この記事 で紹介しましたが、この映画にキューブリックと最初の妻であるトーバ・メッツ(当時はガールフレンド)が、エキストラとして参加していたそうです。  この作品の初公開は1947年9月ですので、撮影がその年だとしてもキューブリックは当時18~19歳(撮影が1947年7月以前なら18歳)。この頃すでにルック誌の有望な新人カメラマンとして、ニューヨークのユダヤ人コミュニティでは知られた存在でした。であれば、キューブリックが映画製作に興味がることを知っている誰かが、この作品のエキストラとしてキューブリックとトーバを撮影現場に誘ったのでは?と考えるのが妥当な気がします。どちらにしても公開された作品は観たでしょうから、キューブリックとトーバは結婚する前から、将来キューブリックの二番目の妻となるルースの存在を認識していたことになります。そのキューブリックがルースと付き合うようになるのはこの5年後の1952年。この頃キューブリックは『恐怖と欲望』を制作中で、ルースはバレリーナをしていました。きっかけはルースのルームメイトの振付師、デイビッド・ヴォーガン(のちに『非情の罠』でデイヴィのマフラーを盗む役として出演)を通じてだと言われています。 ルースが初めて映画に登場するシーン  いずれにしてもこの作品で、キューブリック本人とその最初の妻であるトーバ、二番目の妻であるルースが「共演」しているという事実は、実に驚くべきものがあります。つまりこの三人は、ニューヨークのユダヤ人コミュニティという狭い範囲で知り合い、結婚まで至ったということです。キューブリックはその後、ニューヨークはおろかアメリカからもはるか離れたドイツで、以降の生涯を共にするクリスティアーヌ(しかもユダヤ人を弾圧したナチに近い家系の出身者)と三度目の結婚をすることになるのですが、キューブリックがニューヨークのユダヤ人コミュニティから離れ、イギリスに居を構えたのは、そのユダヤ人コミ...

【関連動画】キューブリックのルック社時代の写真集『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』の紹介動画

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動画は全ページ紹介していますので、ネタバレを回避したい方は視聴をご遠慮ください(音量注意)  キューブリックのルック社時代の写真集 『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』 を入手しましたので紹介動画を作りました。かなりのボリュームと重さなので、届いた時は驚きました。内容はキューブリックのルック社時代の取材写真と、その掲載ページが時系列で紹介されていて、キューブリックの「ポートフォリオ」を見ているような、そんな一冊になっています。  ここに採り上げられているのは主なものだけで、キューブリックはルック社在籍時に残っているだけで15,000枚もの写真を撮影しています。その全ては ニューヨーク市立博物館の検索ページで「Stanley Kubrick」と検索すれば見ることができる のですが、あまりにも多いのでダイジェストとはいえ、写真集として見ることができるのはありがたいですね。  2005年に刊行された 『スタンリー・キューブリック ドラマ&影:写真1945‐1950』 はかなりアート寄りな切り口でしたが、今回は「報道カメラマン」としてのスタンスでまとめられています。当時のキューブリックの実像としてはこちらの方が正しいので、個人的には本書の方をおすすめしたいです。『ドラマ&影』も悪くはないのですが、ちょっと大上段に構えすぎのような気がしますので。  ひとつ気がかりなのはネット全盛の現代で、「ルック」という報道写真誌がどこまで理解されているか、という点です。日本では「グラフ誌」と呼ばれ、アサヒグラフや毎日グラフといった雑誌が出版されていましたが、今世紀に入ってすでに廃刊になっています。当然雑誌なので、売らんがためのセンセーショナリズムやヤラセ、仕込み、恣意的な編集などの「演出」はあって当然ですし、「報道」と言いながら戦前・戦中にはプロパガンダに利用されていました。そういうメディアであったことをよく理解した上で、キューブリックが撮った(撮らされた)これら写真の数々を鑑賞すべきでしょう。  キューブリック本人もこれらの写真を「アート」だとは1ミリも考えていなかったはずです。そんな「制限」の中でもキューブリックらしい視点や切り口、構図やライティングは散見されます。日本で言えば高校在学中(16歳)から高校卒業時(...

【関連動画】キューブリックの2番目の妻、ルース・ソボトカがハンス・リヒターの前衛映画『金で買える夢(Dreams Money Can Buy)』に出演していた!

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 前衛映画の制作者であり、画家でもあるドイツ人芸術家のハンス・リヒターが、アメリカに亡命後の1946年にダダイスムのマン・レイらと制作した映画『金で買える夢(Dreams Money Can Buy)』にキューブリックの2番目の妻であるルース・ソボトカが出演しているそうです。ルースの父親はオーストリアの著名な建築家ウォルター・ソヴォトカ、母親は女優のギゼラ・ショーナウ。キューブリックより3歳年上の1925年ウィーン生まれで、一家は1938年のドイツ併合と時を同じくして、戦争を避けるためにアメリカに移住して来ました。  ルースの出自が裕福な家庭で芸術一家である事を考えると、監督のハンス・リヒターとはドイツ/オーストリア時代に親交があったか、もしくはそういったコミュニティーの一員であったことが考えられます。『アイズ…』の原作『夢小説』はルースの紹介との説がありますが、それも十分考えられますね。結婚していた当時、映画監督としてはまだ駆け出しだったキューブリックに、ルースがかなりの芸術的な影響を与えた可能性があります。この辺りはもっと情報が欲しいところです。  wikiによるとルースがキューブリックと知り合ったのは1952年。この頃キューブリックは『恐怖と欲望』を制作中、ルースはバレリーナをしていました。きっかけはルースのルームメイトの振付師、デイビッド・ヴォーガン(『非情…』でデイヴィのマフラーを盗む役として出演)を通じてです。1955年1月15日に二人は結婚しますが翌1956年秋には関係が悪化、1958年には別居状態(1957年にキューブリックはドイツでクリスティアーヌと知り合っている)、1961年に離婚となっていますが、1957年に離婚との情報もあります。実はクリスティアーヌ自身が編纂した『写真で見るその人生』によるとクリスティアーヌとの結婚は1957年(wikiは1958年となっている)とあるだけで、日付の記述がないのです。正式に結婚式を挙げるなり、入籍したなら日付を入れるはずで、それがないところを見るとキューブリックはルースと正式に離婚する前にクリスティアーヌと同居を始め、アンヤ(1959年4月6日生まれ)とヴィヴィアン(1960年8月5日生まれ)を授かったのではないか、と推察しています。  キューブリックがルースとの関係解消に消極的だった理由は仕事が忙しすぎた、...

【キューブリック展】ウィーンで開催中のキューブリックがルック社に在籍していた時代の写真展『EYES WIDE OPEN』の紹介動画

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 オーストリアのアートフォーラム・ウィーンで開催中のキューブリックがルック社に在籍していた時代の写真展『EYES WIDE OPEN』ですが、展示を雰囲気が伝わる動画がアップされていたのでご紹介。  この頃のキューブリックの写真は ここ で沢山観る事ができるのですが、明らかなボツテイクも多く含まれているし、PCモニタでの鑑賞というのもなんだか緊張感がありません。こういった展覧会での展示はその場の空気感と相まってやはり素晴らしいですね。当ブログで何度も表明しているのですが、関係各位には日本での写真展の実現を是非お願いしたいです。

【キューブリック展】オーストリアのアートフォーラム・ウィーンでキューブリックのルック社在籍時代の写真展が開催中

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Waffen, Zirkus, schone Frauen Shoe Shine Boy Mickey steht am Strasenrand und wartet. Nachste Szene: Mickey blickt auffliegenden Vogeln nach. Die Fotos, die Stanley Kubrick (A Clockwork Orange, Shining und 2001: Odyssee im Weltraum) in den spaten 1940ern fur das Look-Magazin machte, sind akribisch komponiert und lassen bereits seine filmische Handschrift erahnen. Kubrick sagte dazu nur: "Well, I never shoot anything I don't want." Das Kunstforum Wien zeigt in der Ausstellung Eyes Wide Open eine Auswahl seiner Fotoreportagen. (引用: ZEIT ONLINE/2014年5月27日 )  オーストリアのアートフォーラム・ウィーン(Kunstforum Wien)でキューブリックのルック時代の写真展が『EYES WIDE OPEN』と題して2014年5月8日から7月13日まで開催中です。上記はその紹介動画です。日本でも是非開催して欲しいものですね。

【ブログ記事】スタンリー・キューブリックが遺した約1万6千枚もの写真がネット上に公開中

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Rosemary Williams, Show Girl [Stanley Kubrick taking a picture of Rosemary Williams applying lipstick.]  スタンリー・キューブリック・フィルム・アーカイブとニューヨーク市立博物館が、キューブリックがルック社在籍時代に遺した約1万6千枚以上の写真を ネット上で公開 しています。写真集『スタンリー・キューブリック ドラマ&影:写真1945‐1950』や『Stanley Kubrick Photographs: Through a Different Lens』にも掲載されていない未見の写真が大量にありますので、時間をかけてじっくりご覧ください。

【関連記事】これが原点。「天才少年」と謳われた若きスタンリー・キューブリックの写真作品

 「2001年宇宙の旅」、「時計仕掛けのオレンジ」、「シャイニング」などで知られる映画界の巨匠スタンリー・キューブリック監督が1940年代に撮影した写真をご紹介します。1940年代、17歳から22歳の頃にルック誌の見習いカメラマンとして働いていた時代です。キューブリックはニューヨークの人々を捉えています。決して生き生きとした人物達が捉えられているわけではなく、どこか影のある人物やアングルで撮影されています。この頃から独自の視点をもっていたことがわかりますね。関係者には「天才少年」と言われていたようです。ルック誌での活動の後、短編ドキュメンタリー「拳闘試合の日」を製作しルック誌を辞めています。映画を撮る以前、若いキューブリックのこれらの写真を残していることがとても興味深いですね。 (引用元:ARTIST DATABASE/2014年4月1日)※記事は削除されました。  最近キューブリックのルック社在籍時代をまとめた写真集『スタンリー・キューブリック ドラマ&影:写真1945‐1950』へのアクセスが多いと思ったらこういう記事が出ていたんですね。当ブログでもこの時代の事はたびたび記事にしています。まず写真集についてはこちら。ルック社に入社するきっかけになったという、ハイスクール時代にルック社に25ドルで売りつけた有名な写真についてはこちら。通称『シカゴ・シリーズ』の没テイクをまとめた動画はこちら。キューブリックの愛機についてはそれぞれ、スピグラ、コダックモニター、ローライ、ライカとリンク先で記事にしています。また、キューブリックはこの頃ダイアン・アーバス、ウィージー、バート・スターンら超一流カメラマンらとも交流がありました。  それにしても上記の記事にはコメントはもちろん、ツイートやいいね!も結構なカウントがされていますね。去年イタリアのジェノバでこの時代の写真展が開催されていますが、これだけ需要があるなら日本での開催も可能ではないでしょうか?是非関係者様にはご検討をお願いしたいです。

【アーティスト】バート・スターン(Bert Stern)

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 マリリン・モンロー最期の写真を撮ったと言われているヴォーグ誌のカメラマン、バート・スターン。そのスターンが『ロリータ』のポスターやパッケージ等でさんざん目にしてきた、あのハートマークのサングラスにロリポップを舐めている写真を撮った、というのは殆ど知られていない事実なんじゃないでしょうか。  『ロリータ』をご覧になった方ならご存知ですが、あのビジュアルのシーンは本編には登場しません。純粋に宣材写真として別に撮られた物です。キューブリックはルック社時代に同僚だったスターンに声を掛け、一連のフォトセッションの中からあの写真をチョイスしました。  ところであのビジュアル、髪の毛やあごから下は写っていません。どうしてそうなったのか長年疑問だったのですがトリミング前の写真を見てその謎が解けました。あれは車のルームミラー越しに写したものだったんですね。上下がカットされているのはルームミラーのふちがボケていたからです。つまりあのビジュアルはスー・リオンの鏡像、という事になります。  その後スターンは悪童の名を欲しいままに、モンローを始めオードリー・ヘップバーン、エリザベス・テイラー、ブリジット・バルドー、ツイッギー、マドンナ、カイリー・ミノーグ、ドリュー・バリモアなどそうそうたる女性たちの写真を撮っています。また『真夏の夜のジャズ』(1959)というドキュメンタリー映画の監督としての方がジャズファンには有名でしょうか。キューブリックもジャズ好きでルック時代にシカゴのジャズメンの写真を残しています。そういう意味ではウマが合ったのかも知れません。  2011年にDVDとして発売されたバート・スターンのドキュメンタリー『Original Mad Man』のトレイラーにはロリータのフォトセッションの写真も登場しています。(それにしてもツイッギー若い!)  当時モデルをしていた『非情の罠』のヒロイン、アイリーン・ケーンをキューブリックに紹介したのもスターン。  1929年10月3日、アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン出身、2013年6月26日死去。享年83歳。

【関連動画】1949年、キューブリックがシカゴで撮影した写真のスライドショー

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 キューブリックがシカゴで撮影した写真のアウトテイク集(一部採用写真も)がスライドショーになってYouTubeにありましたのでご紹介。タイトルは『シカゴ~街の陰影』です。  ほとんどが35mmですが、トランペットを吹く男性の写真とビッフェの写真は明らかに画像の鮮明さが他と違いますしヤラセ臭いのでローライフレックスで撮った取材写真ではないでしょうか。はっきりと6×6とわかるのは赤ちゃんとボディービルダーの写真ですね。前にインタビューで「赤ちゃんと運動選手はどちらが力が強いかとかくだらない写真ばかり撮らされた」と言っていたのはこの写真の事かも知れません。取材写真は基本的にローライフレックスを使っているようです。  35mmで撮っているのはドキュメンタリー写真ですから機動性のある小型カメラを使ったのでしょう。ライカIIIだと思いますが、確証はないです。フィルムはコダックのスーパーXXを使用しているようです。キューブリックはこの時まだ20歳。翌年にはルックを退社してしまうのですからたいした度胸です。  ところで上記の動画や各所の紹介記事には撮影は1949年夏となっていますが、写真集『ドラマ&影:写真1945-1950』によると1949年1月となっています。駅の人々の服装からすると、どうみても冬ですね。もしかしたら冬と夏二回派遣されて両方の写真が混ざっているのかもしれませんが、もしそうだとしても、もうちょっと調べてから記事にして欲しいものです。

【愛機】ライカIII(Leica III)

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セルフポートレート、1940年代  キューブリックが愛用したライカIII、写真集『ドラマ&影:写真1946-1950』が発表されて一気にメジャーになった感のある上記の写真で手にしているのがライカIIIです。  この写真、『ドラマ&影』には1940年代としか表記がありませんでしたので、撮影時期と場所の特定を試みたのですが、『あるコーラスガールの日常生活』のアウトテイクと思われますので、撮影日時は1949年3月、場所はニューヨークである事が分かります。上記写真は顔全体と両手まで入る大きい鏡の前で撮影していますから、コーラスガールが出演中の待ち時間の楽屋で撮ったのではないでしょうか。最初は宿泊していたホテルで撮ったのかと思いましたが相当大きい鏡ですからね。ただ日にちは違うかも知れません、時計をしていないですから。数日に渡る同じ一連の取材で撮った物とするならば、キューブリック20歳、ニューヨークでの写真という事になります。  でもご存知の通り、キューブリックって同じ格好ばっかりするので有名ですからね・・・。髪型も少し違うような気がします。服装で特定できないのが辛いところです(笑。  ところでキューブリックは35mmではコンタックスも愛用していました。『地下鉄車中での秀作』(1946年)はコンタックスで撮影した事が知られています。しかもレリーズをポケットに隠し、盗み撮りだったみたいです。そのコンタックスですが詳細な型番までは不明ですので、情報が分かれば記事にしたいと思います。

【愛機】コダック・モニター620(Kodak Monitor 620)

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コダック モニター Six-20(写真は当人のものではありません)  キューブリックが16歳の誕生日に父親から贈られた、生涯初めての記念すべき自分専用のカメラ。13歳の誕生日には父親が所有していたスピード・グラフィックを譲られています。キューブリックはこのカメラや35mmをぶらさげ被写体を探しては学校や街を歩き回り、学校のチアガールの撮影ではプリントの裏に「スタンリー・キューブリック撮影」とスタンプを押して被写体になった人に渡していたそうです。それにしても・・・ずいぶんとウザい奴です(笑。  このコダック・モニター620、フィルムは620サイズで6×9cm(ロクキュウ)になりますからスピグラと比べるとコンパクトです。キューブリックは後に「あんなにカメラを安定して持てる人を他に知らない」とカメラマンからも高い評価を得ていますが、その基礎は子供の頃にスピグラを使いこなすことによって身体で憶えたのかも知れません。そして次がこのコダック、そして更にコンパクトなローライへと続くのですが、スピグラが扱えればどうってことないでしょうね。現在でも「カメラを本格的に始めるならまず一眼から」と言われますが、こういう事も関係しているんでしょう。 【ご注意】現在キューブリックが初めて使用したカメラについて、スピード・グラフィックとコダック・モニター620と両方のソースがあるようです。評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』によるとグラフレックス(スピード・グラフィック)となっていますが、これは父親所有のものだった事が記されています。一方の1948年10月のカメラ誌の記事には「キューブリックは19歳の誕生日を向かえたばかりだが、丁度3年前に父親からコダック・モニター620を贈られた」とあります。両方のソースを考慮すると、上記のように13歳の誕生日に父親所有のスピード・グラフィックを譲り受け、16歳の誕生日に改めて新品のコダック・モニター620を贈られたのではないか、と判断して記事にいたしました。

【愛機】スピード・グラフィック(Speed Graphic)

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LACMAで開催された『スタンリー・キューブリック展』に展示された本人所有の「スピグラ」  キューブリックが初めて手にした記念すべきカメラ。「父親からのプレゼント」と言われていますが実際は父親所有の物で、当時13歳だったキューブリックに使用許可を与えただけではないかと推察しています。まあキューブリックの事ですから、そんな事はおかまいなしに自分の物として使い倒していたであろう事は容易に想像できます。評伝によると、アパートの階下に住むマーヴィン・トローブと一緒になって写真を撮りまくり、彼の家にあった暗室にしょっちゅう通い詰めるという事態に。そんなキューブリックを見たマーヴィンの伯母に「あの子には自分のアパートがないのかしら」と皮肉まで言われる始末なのでした。  そんなキューブリックに自分のカメラを独占されたお父さん、しょうがないんで3年後の16歳の誕生日には正式にキューブリック専用の物としてコダック・モニター620を贈っています。  さて、このスピードグラフィック(俗にスピグラと呼ぶそう)というカメラ。よくギャング映画などでマスコミがバシャバシャとフラッシュを焚いて写真を撮っているシーンを見ますが、まさにそれになります。以前紹介したローライフレックス・スタンダートより大きい大判カメラと呼ばれるもので、子供が扱うにはとても大変だったろうと思います。フィルムは4×5判(シノゴ)で、デジタル全盛以前はプロ用フィルムとして定番のサイズでした。とにかくフィルムが大きいのでポスターやカレンダー、看板など、大きく引き伸す必要のあった撮影には必ず用いられていました。  難点はフィルムが12枚しか装填できず、1枚撮るごとに感光防止シートを引き抜かなければならなかった点です。昔の人は本当に良く考えてシャッターを切らないとシャッターチャンスを逃していたんですね。「下手な鉄砲(数撃ちゃ当たる)方式」でOKなデジカメとは雲泥の差、シビアな世界です。  現在LACMAで開催中のキューブリック展には実物のスピグラが展示中です。もちろんキューブリックの物ですが、父親の遺品でもあります。大切に取っていたんですね。両親の葬式には出席できなかったキューブリックですが、それなりに想いはあったのでしょうね。 【ご注意】現在キューブリックが初めて使用したカメラについて、スピード・グラフィックとコダック・モニター6...

【機材】ローライフレックス・スタンダート(Rolleiflex Standard)

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ローライフレックス・スタンダートを持ってポーズを決める若き日のキューブリック  キューブリックがルック社のカメラマン時代に愛用していたローライ社製の二眼レフカメラ。フィルムは通常の35mmより大きく6cmあるブローニーで、ブローニーカメラ(中判カメラ)と呼ばれています。フィルムが大きい分画質が良いので、主に風景写真やプロカメラマンなどプロフェッショナル専用というイメージがありますが、愛好家も数多くいて、デジタル全盛の現在でも隠れた人気があります。ファッションカメラマンがファインダーを上から覗き込みながらハンドルでフィルムを廻してシャッターを切るシーンなんかをよく見かけますが、あれがブローニーカメラです。  フィルムは35mm(24×36mm)とは縦横比が異なり、6×4.5cm判、6×6cm判、6×7cm判、6×8cm判、6×9cm判とさまざまありますが、ローライフレックス・スタンダートは6×6(ロクロク)用なのでその名の通り正方形になります。写真集『写真で見るその人生』のP37~43に掲載されているノートリミングでベタ焼きされた正方形の写真は全てこれで撮ったものだと思われます。キューブリックはカメラマン出身なので映画撮影ではスタンダードサイズにこだわった・・・などどいう論を唱える人は、カメラといえば35mmかデジカメしか知らないのでしょう。プロである以上、どんな縦横比のフィルムでもキッチリと構図を決めて撮る事ができます。もちろんキューブリックも、です。当たり前の話ですね。  しかし映画はそうはいきません。上映館や再生装置(TVなど)によって縦横比が大きく変わってしまいます。これにはキューブリックも頭を抱えた事でしょう。なにしろ撮影時には構図を完全に決めていても、再生場所によってそれが崩れてしまうのですから。それへのせめてもの対策は ここ で記事にしています。  当時キューブリックはこれ以外にもスピード・グラフィックやコダック・モニター620、コンタックス、ライカIIIも愛用していたようです。本人所有のスピード・グラフィックの実物は現在LACMAで開催中のキューブリック展で展示されています。

【キューブリック展】キューブリックのルック社在籍時代の写真展がイタリア・ジェノバで開催中

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 ニュース映像がアップされていたのでご紹介。ルック社在籍時代の写真を集めた展覧会がイタリア・ジェノバのドゥカーレ宮殿で2013年5月1日から8月25日まで開催中です。会場の雰囲気は上記の動画で分かりますが、あまり大きな規模ではないようです。LACMAで開催中のキューブリック展は不可能でも、この規模なら日本での開催も可能な気がします。関係各位には是非検討して頂きたいですね。

【トリビア】F.D.R DEAD(フランクリン・ルーズベルト死す)

  キューブリックが初めて写真でお金を稼いだ記念碑的な作品。正式には『スタンリー・キューブリック、無題、1945年4月』。ルック社に25ドルで買い取られ、写真雑誌『ルック』6月26日号に掲載された。この時キューブリックは高校在学中でまだ16歳。早熟すぎますね。そして高校卒業後、ルック社で報道カメラマンとして4年余り働く事になる。