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【インスパイア】ボブ・ディランが『ロリータ』にインスパイアされて書いた曲?『女の如く(Just Like a Woman)』

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上がボブ・ディランが描いた絵。下がその元になったキューブリックの『ロリータ』のワンシーン。あまりの一致度にトレースを疑ってしまう  2016年にノーベル文学賞を受賞した(個人的にはとても「的外れ」だとは思いますが)世界的ミュージシャンでアーティストのボブ・ディランは、絵も描くことが知られていて、ザ・バンドの名盤『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』や、自身のアルバム『セルフ・ポートレイト』のジャケットでその筆致を見ることができます。2010年には東京・六本木で絵画展が開催されました。そのディランが2016年にキューブリックの『ロリータ』のワンシーンを描いた作品が上記になります。また、その『ロリータ』についてもラジオ番組でナボコフの小説やキューブリックの映画版の『ロリータ』が気に入っていた旨を語ったそうです。  となると、名盤『ブロンド・オン・ブロンド』(1966)に収録された曲『女の如く(Just Like a Woman)』の歌詞を、がぜん興味深く聴くことができるようになります。 Nobody feels any pain Tonight as I stand inside the rain Everybody knows That Baby’s got new clothes But lately I see her ribbons and her bows Have fallen from her curls She takes just like a woman, yes, she does She makes love just like a woman, yes, she does And she aches just like a woman But she breaks just like a little girl 誰も痛みを感じない 今夜僕は雨の中に立っていても 誰もが知っている あの娘が新しい服を買ったことも でも最近、あの娘の巻き毛から リボンやタイがなくなったのを知った あの娘はまるで女のように、そうさ あの娘はまるで女のように愛し合う、そうさ そして、あの娘は女のように痛がる だけど、あの娘は少女のように傷つく この曲、 wiki には 1965年ツアー中の感謝祭の日に書かれたバラードで、アンディー・ウォーホールの「ファクトリー」に所属...

【スペシャルレポート】グランドシネマサンシャイン池袋の館内に掲示されている名画ポスターで、キューブリック作品を探してきました

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  グランドシネマサンシャイン池袋の館内には、往年の名画のポスターの複製が飾られています。そのポスターにキューブリック作品がどれだけあるのか調査してきましたので、その結果をお知らせしたいと思います。 『ロリータ』(6〜7階 エスカレーター) 『2001年宇宙の旅』(6〜7階 エスカレーター) 『シャイニング』※キービジュアルのみ(7〜8階 エスカレーター) 『時計じかけのオレンジ』(8階フロア)  以上なのですが、『2001年…』『ロリータ』『シャイニング』はエスカレーターの途中に掲示されているのでじっくり鑑賞するのは難しかったですね。『時計…』はシアター入口付近でしたので、撮影も鑑賞もやりやすかったです。  館内には約150枚もの映画ポスターが掲示されているそうですが、その中でキューブリック作品が4作品というのはなかなかの高割合です。こんなとこからもキューブリック作品の人気の高さが伺えますが、鑑賞はくれぐれも他のお客様のご迷惑にならないよう、注意してお願いいたします。 参考: 【グランドシネマサンシャイン】展示映画140作をまとめました!!

【関連記事】『ロリータ』の暗部。主演の少女女優の処女を奪ったプロデューサーのジェームズ・B・ハリスとその後のスー・リオンの人生

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『ロリータ』のセットでのハリスとスー。この写真を撮ったキューブリックは、この時すでに二人の関係を知っていたのかも知れない ハリスとスーが『ロリータ』で共演した演劇のシーン。画像一番左がハリス スーの最初の夫、ハンプトン・ファンチャー。結婚期間は1963年12月〜1964年12月 『ロリータ』の暗部  スー・リオンがこの映画に出演した時、彼女は14歳だった。プロデューサーはいずれにせよ彼女と寝たのだ。 サラ・ウェインマン著 2020年10月24日   1996年、エイドリアン・ライン監督による新作『ロリータ』の映画化が発表されると、スタンリー・キューブリック監督の1962年作品で主演を務めたスー・リオンが長年の沈黙を破って登場した。当時15歳だった新ロリータ役のドミニク・スウェインより(撮影当時)1歳年下のリオンはこう語った。「私の人間としての破滅は、あの映画に端を発しています。『ロリータ』は、あの年頃の少女が経験すべきではない誘惑に私をさらしました。14歳でセクシーなニンフ役でスターダムに駆け上がった可愛い女の子が、その後も安定した道を歩み続けられるとは到底思えません。」  そして、15歳のリオンは、この「成人向け映画」のロサンゼルスとニューヨークでのプレミア上映への出席を禁じられた。  『ロリータ』はリオンをスターにした。それはまた、ナボコフのニンフ(注:ニンフェット〜妖精的美少女)が経験したような破滅の始まりでもあった。彼女の未来は、数十年にわたる精神的不安定、5度の結婚、最終的に捨て去ることになる子供、そして長引く肉体の衰えと、2019年に73歳で亡くなるという結末を迎えた。リオンは自身の「破滅」の原因は初期のスターダムにあったと主張したが、撮影中に起こり、そして彼女を破滅させたのは、プロデューサーのジェームズ・B・ハリスとの性的関係だったという噂が長く囁かれていた。もしリオンの破滅が『ロリータ』から始まったとしたら、たった一人の人間がこれほどのダメージを与えた可能性はあるのだろうか? 『ロリータ』以前のリオン  リオンは『ロリータ』のオーディションを受けるつもりはなかった。幼なじみの親友ミシェル・ギリアム(後にママス&パパスのフィリップスとなる)とモノポリーに興じている最中、フィリップスの記憶によれば、リオンの母親が真新しいドレスと靴下を持って飛び込...

【考察・検証】「ロリータ・ファッション」の語源はキューブリックの『ロリータ』のポスターであるという嶽本野ばら氏の説を完全否定する

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 そもそもヒラヒラ服が何故、ロリータと呼ばれるようになったのか?JaneMarpleを含むDCブランドが隆盛を極めた八〇年代から九〇年代、日本の服飾界には海外とは異なる独自の潮流が難れた。過剰な少女趣味。表現する用語が見当たらなかったので、誰かが深い考えもなく“少女らしさ”というニュアンスをそれに置き換えてみた。イメージはナボコフの「ロリータ」ではなくキューブリックの映画「ロリータ」でもなく、その映画のポスター。あの赤いハート型のサングラスをして赤いキャンディを舐めてる女のコの絵はカッコ可愛くてお洒落じゃないですか。 ──嶽本野ばら「ロリータ・ファッション」(2024年、国書刊行会) (引用: Fashion Snap/2024年7月2日 )  嶽本野ばら氏は「少女趣味でヒラヒラしたファッションを「ロリータ・ファッション」と呼ぶようになったのはキューブリックの『ロリータ』のポスターである」としていますが、これは完全に間違っています。なぜなら1994年に再上映されるまで、ファンの間でさえキューブリックの『ロリータ』は存在感が薄かったからです。確かに1990年代にはキューブリック版『ロリータ』のポスターやポストカードがオシャレ系雑貨店で売られていましたが、それはロリータブームの後追いで便乗して売られていたにすぎません。そんな状況下であるのに、『ロリータ』がロリータ・ファッションの語源になるはずがありません。それにファッションアイコンとしての「ロリータ」という言葉は1987年にはすでに存在していた(『流行通信』1987年9月号)のです。時系列が全く合いません。 『流行通信』1987年9月号  では「ロリータ・ファッション」の「ロリータ」という言葉はどこから来たのか?私はファッションの専門家ではありませんが、心当たりはいくつかあります。まず、この国では「ロリータ」という言葉よりも先に「ロリコン」という言葉が流行ったという事実があります。1979年公開の宮崎駿監督『ルパン三世 カリオストロの城』には「妬かない妬かない、ロリコン伯爵」という台詞が出てきますし、ロリコン漫画の祖と言われる吾妻ひでおの『ななこSOS』は1980年、1983年の手塚治虫のインタビューでは「僕は(ロリコンブームを)ただ利用してるだけ」(引用: 手塚治虫OFFIOFFICIAL )という発言まであ...

【関連動画】WatchMojo Japanによる『史上最も物議を醸したキャラクター ランキング Top20』

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 微妙なナレ声と作品チョイスで観る者を困惑させる「WatchMojo Japan」。そのランキング動画『史上最も物議を醸したキャラクター ランキング Top20』でキューブリック作品が2作もランキングされていたのでご紹介。  ・・・まあ、ご覧になった通りなんですが、『時計…』のアレックスが3位なのはともかく、『ロリータ』が1位っていうのはちょっと・・・。そんなにもロリータ(スー・リオン)は「史上最も物議を醸したキャラクター」って言えるんでしょうか? 公開当時を知らない管理人はなんとも言えませんが、スー・リオンが日本にプロモーション来日する(詳細は こちら )程度には話題になったのでしょう。でも、もっと1位にふさわしいキャラクターっていますよね?キューブリックのファンである私でさえそう思います。  20位から11位までは以下の動画をどうぞ。ところでこのWatchMojo Japan、WatchMojoを勝手に翻訳して再アップしている非公式チャンネルだと思っている方もいるみたいですが、一応公式ですので間違わないでください。まあ、公式なのに訳や映画スキルのレベルが低く、それが誤解を生んでいる原因でもあるんですけどね。

【ブログ記事】『ロリータ』の主演女優、スー・リオンの実娘、ノーナ・ハリソンについて

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  スー・リオンと娘のノーナ  ロサンゼルスで生まれ育ったノーナの人生は、まるでおとぎ話のように始まった。 有名女優のスー・リオン(ロリータ)と(黒人)フットボール選手(ローランド・ハリソン)の娘である。 幼少期は父親が不在で、金髪碧眼の母親との違いに幼い頃から疑問を抱いていた。 しかし、ノーナの生い立ちは決して「普通 」ではなかった。母親は、ノーナが生まれる前に双極性躁鬱病と診断された。母親が何カ月も寝たきりになることもあり、ノーナは家庭内の世話係になった。 12歳のときに母親が再婚し、母親との関係は一変した。ノーナは家を追い出され、13歳になるとハーフウェイハウス(自立生活訓練施設)に連れて行かれた。 同年、母親は彼女を精神病院に入れ、3カ月ほど入院させた。憧れの存在であった母親に裏切られたことで、ノーナの精神は崩壊し、そこから立ち直るには何年もかかることになる。 ノーナは現在、ロサンゼルスに住んでいる。 (引用元: Facebook Nona Truth Seeker/2013年3月4日 )  『ロリータ』の主演女優、スー・リオンの一人娘ノーナは1972年5月20日生まれですので、「12歳の時に母親が再婚」というのは、 この年表 によると1984年にエドワード・ウェザースと結婚したことを指すのだと思います(翌年には離婚)。1985年にスーはリチャード・ラドマンと結婚しましたので、その結婚生活にノーナが邪魔になったのか、スーはノーナをハーフウェイハウスへ追い出してしまいました。どうやらスーにとってこの結婚生活が一番充実していたようで、1994年にはキューブリックに幸せそうな写真を同封した手紙(詳細は こちら )を送っています(結局はまた離婚するのですが)。ですがその笑顔の裏では、娘に対して虐待とも言える行為に及んでいたことになります。  スーは『ロリータ』の次作『イグアナの夜』撮影中の1963年に、キューブリックに宛てて「ぜひぜひ次の映画に出させてください」という手紙(詳細は こちら )を書いています。その後は素行の悪さからトラブルメーカーの烙印を押され、ハリウッドから干されると「私の人格崩壊は『ロリータ』から始まった」などと言い出します。ところが1994年になると「私が成功したのは、あなたのおかげです」と書いた手紙をキューブリックに送るのですから、「何...

【関連記事】キューブリックとハリスが『ロリータ』の直後に映画化を検討していた『レッスンC(Passion Flower Hotel)』

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ツインテのナスターシャ・キンスキー。本編シーンか宣材写真なのかは不明。萌える人は萌えるか…も? 〈前略〉  『ロリータ』の製作が終了して間もなく、キューブリックとハリスは、全寮制女子校の中にある売春宿を描いたロザリンド・アースキンのコミカルな小説『パッション・フラワー・ホテル』の映画化を企画した。この小説は、後にジョン・バリーの音楽で舞台ミュージカルになり、さらに後にナスターシャ・キンスキー主演で映画化された。 「当時、映画を公開するために必要なプロダクション・コードに縛られていたので、性的表現のある映画を撮ろうと真剣に話し合ったんです」とジェームズ・B・ハリスは振り返る。「念のために言っておきますが、すべては仮定の域を出ませんでした。スタンリーの考えは、才能のある俳優を使って、正直で自由なものを撮れば、美しく、真実味があり、さらにはストーリーを語ることができるというものでした」 〈中略〉 「スタンリーが考えていたのはポルノではなく、検閲を超えた何かだった。1950年代半ばの問題はそうだった。そんな映画をどこで見せられるのか。検閲を通らなければ、新聞に広告を出すこともできないし、映画館で合法的に上映することもできない」 〈以下略〉 (全文はリンク先へ: FADE IN/2012年12月26日 )  この小説『パッション・フラワー・ホテル』は1978年に『レッスンC』(原題『Passion Flower Hotel』)として映画化されました。主演はナスターシャ・キンスキーです。1974年に官能映画『エマニエル夫人』が世界的に大ヒットして以降、ソフトポルノ映画が制作されるようになり、1970年代後半から1980年代前半にかけて十代の若者の性を描くいわゆる「青春エロ映画」「性のめざめ映画」(『青い珊瑚礁』『初体験/リッジモント・ハイ』『グローイング・アップ』『ポーキーズ』『超能力学園Z』などなど)とうジャンルが大流行しましたので、その流れでこの小説も映画化されたのだと思います。1978年というのはソフトポルノから青春エロ映画への転換点くらいの時期になるでしょう。  キューブリックがこの小説の映画化を検討していたのは1962年ごろだと思いますので、それよりもずいぶんと早い時期です。「性の解放」といわれる時代は1970年代に入ってからですので、約10年以上は早いですね。『ロリ...

【ブログ記事】スー・リオンが『ロリータ』撮影後の1963年10月28日にキューブリックに宛てた手紙

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1963年10月28日 ミスマロヤ 親愛なるスタンリー  あなたのことを気にしているということを伝えたくて、この手紙を書きました。あまりに長い時が経って、まるでもうお互い会わないことにしたみたい。でも言わせて。あなたは一年に一本の映画を作るのだから、ぜひぜひ次の映画に出させてください。  今、私演技の勉強をしてるの。知っていた?どうか反対なさらないで。ハリウッドでエリック・モリスという演技指導の中でも特に有名な人の元で、とても楽しく学んでいます。私がジョン・ヒューストンと映画を作っているのはすでにご存じでしょう。もちろん『ロリータ』の時みたいな撮影とは違うけれど、みんな親切で撮影は順調です。『博士の異常な愛情』を見るのを躊躇してます。どうかあなたの住所を送ってください。私、あなたの住所知らないの。この手紙を読んだら、ぜひ送ってね。  クリスティアーヌさんとお子さんたちの健康を祈って。アメリカに帰る予定はあるかしら?お返事お待ちしています。 愛をこめて、スー  実に少女らしい手紙ですが、それもそのはず、この時スーは17歳でした。文章中にある「ジョン・ヒューストンの映画」とは1964年の映画『イグアナの夜』(メキシコのミスマロヤでロケが行われた)のことですが、撮影に母親とボーイフレンド(後に結婚するハンプトン・ファンチャー)と同伴していたため、手紙の内容とは裏腹に共演者とはトラブルが絶えなかったそうです。それに比べれば『ロリータ』の撮影は(彼女にとっては)順調だったのでしょう。そんな理由から「ぜひ次の映画に出させてください」などという殊勝な手紙を書いたのかも知れませんね。  スーの詳しい経歴は こちらの記事 に譲るとして、後のインタビューでスーは「私の人格崩壊はこの映画(『ロリータ』)から始まった」と語っています。しかしその後『ロリータ』のビデオ化で大金が舞い込んだのか、1994年に再び感謝の手紙をキューブリックに送っています。おそらくこの頃のラドマン氏との結婚生活が一番充実していたのではないでしょうか。ですがそれも2002年になって破局、結局独り身のまま健康悪化により2019年12月26日に死去してしまいました。  スーの不幸な生い立ちを考えれば、彼女の「破滅型人生」は避けられなかったのかも知れません。しかもショー・ビジネスの世界がそれを更に加速させてしまった面はある...

【ブログ記事】『ロリータ』のラストシーンに登場した女性の肖像画の画家、ジョージ・ロムニーのロリコン人生

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George Romney - Mrs. Bryan Cooke (Frances Puleston, 1765–1818)  『ロリータ』のラストシーンで撃ち抜かれた女性の肖像画はジョージ・ロムニー作『ブライアン・コーク夫人(フランシス・プルストン)』でした。そしてこの画家、ジョージ・ロムニーもまた、一人の少女「エマ」に魅せられ、狂わされた中年男性だったのです。  wikiによると  ロムニーは生活の糧である肖像画とは別に文学的な主題を持った作品を手掛ける事も渇望していた。1782年4月、友人のチャールズ・グレヴィル卿が肖像画を依頼するために新しい愛人をロムニーのもとに連れてきた。彼女こそ彼に多大な芸術的霊感を与えてくれる女神とも言える存在となる、エマ・ハート(後のエマ・ハミルトン)であった。当時エマ・ハートは17歳、ロムニーは47歳であった。グレヴィルは商業的思惑で依頼したのであるが、芸術家としてのロムニーにとっても得難い邂逅だった。エマは肉体的存在感とプロのモデルにも匹敵する表現力と天性の魔性を兼ね備えていた。ロムニーは肖像画家としての日常の仕事と両立させる事が困難になるほど、エマに取り憑かれた。  彼はエマの肖像画を様々なポーズで60作以上描いた。それらは現実的な肖像、寓話・神話・宗教的イメージの具現化と多岐にわたった。エマは1782年4月から1786年3月まで約180回ロムニーの前でポーズをとった。多くは文学的な主題における劇的なヒロイン、魔女キルケーに始まり、メデイア、バッカスの巫女、テティスなどに扮した。1886年にエマ・ハートはナポリに向かいウィリアム・ダグラス・ハミルトン卿の愛人となった。1891年にハミルトン卿と正式に結婚するためイングランドに帰国し、6月から9月にかけて34回ロムニーのモデルを務めた。結婚式の日にただ一度「ハミルトン夫人」としてロムニーの前に座った。その後エマはナポリに戻り、二度とロムニーと再会する事は無かった。 (引用元: wikipedia「ジョージ・ロムニー」 )  と、ハンバートと瓜二つな入れ込みっぷりと失恋っぷりに驚きますが、ハミルトン夫人となったエマはその後、ハミルトンと親交のあったイギリス海軍の英雄、ネルソン提督と愛人関係に。すでに高齢だったハミルトンはこの事実を受け入れ、ネルソン提督との友情を保っていたそうです。...

【関連記事】週間明星 1962年10月7日号に掲載されたスー・リオンの来日時のインタビュー

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1962年9月10日の来日時のカラー記事(週間明星 1962年10月7日号)。昭和37年の日本でこのスタイル・ルックスなら相当可愛いと思う 結婚なんてしたくない! 来日した“ロリータ娘”スー・リオン  “ベン・ケーシー”とのロマンス説で大騒ぎされた16歳女優スー・リオンが、主演映画『ロリータ』宣伝のため初めて日本にやってきた。『ロリータ』といえば有名な背徳映画。中年男との異常な愛欲生活にふける美少女を演じたスー・リオンにインタビューして、ナゾに包まれた彼女の私生活をのぞいてみるとー ー映画のロリータみたいに中年男とカケ落ちしたいと思ったことは… 「一度もないわ。私たちティーンエイジャーはあんまり年のちがわない子としか付き合わないもの。相手にするなら、せいぜい25どまり。私なんか19以上の男の子とデートしたことないわ」 ー女優になって一番うれしかったのは… 「お金がたくさん入ったこと。こんなに早く大金を稼ぐ方法って、ほかにはないわね。私は7年契約したから、安心して家にいる。これが一番うれしいわ」 ー学校のほうは… 「去年ハイスクールをやめてから、個人教授で勉強してるの。歴史、文学、フランス語、地理、お裁縫…生理(※生物のこと?)も習ったけど、カエルの解剖なんて私大嫌い。動物はみんな可愛いのにネ」 ー金髪がとてもきれい… 「もともとは淡い褐色だったの。でもテレビの役が欲しくて染めちゃったのよ。金髪だけど、ベビー・ベージュといってちょうだい」 ーパパがいないんですって? 「私が生まれて10ヶ月目に死にました。あとはずっとママが働いて育ててくれたのよ。姉妹は5人。兄、姉が3人。私は末っ子」 ー自慢にしているものは… 「ピンクと白で統一したベッドルーム。それからクルマ、16になったから免許証取ったのよ」 ーボーイフレンドいる? 「いるわよ。でも私、映画スターになる気だから、結婚して子供生もうなんて考えたくないわ。もし結婚して、家庭と女優が両立しなくなったら、やっぱり家庭に入るけど、そんなことにならないほうがいいなァ」 ー『ロリータ』の中年男になるジェームス・メースンは…? 「なんだかパパみたい。でも間違って恋をしてもいいナと思うくらい、魅力的ね。恋愛は年じゃないでしょ、16でオトナの人もあれば、50すぎてもまだコドモの人もいる…。だけど私は若い人じゃなくっちゃイヤ」 ーじゃあ...

【ブログ記事】1994年10月にスー・リオンがキューブリックに宛てた手紙と写真

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  親愛なるスタンリー  あなたに届くかどうかわからないから、長い手紙にはならないでしょう。何から書けばいいのでしょう? さて、私はもうスー・リオンとは名乗っていません。この10年間幸せな結婚生活を送り、今はスーリン・ラドマンと名乗っています。私はリチャードという素晴らしい男性と結婚しています。彼は放送技術者です。彼はここロサンゼルスの二つの大きな放送局のチーフエンジニアです。私たちの結婚はまるで夢のようで、私はとてもとても幸せです。  私はほとんどの時間をガーデニングや家の手入れに費やし、私たちの素晴らしいジャーマンシェパードドッグ、パックスと遊び、トレーニングしています。  あなたが受け取ってくれるかどうかわからないのに、この手紙を書くのは本当につらいことです。この手紙を書くのは本当に大変です。私はよくあなたのことを考え、あなたがどうしているか、幸せかどうかを考えます。  私の人生は今、とてもシンプルなものです。そして、私はそれが好きなのです。私はいつも、唯一の理由はそれだと信じています。私が成功したのは、あなたのおかげだと。  私たち夫婦の最近の写真を送りますので、あなたに届きますように。もし届いたら、お返事をください。クリスティアーヌとあなたに愛を込めて。すぐに連絡が来ることを願っています。 スーリン(スー)  内容は近況報告とキューブリックへの感謝が綴られています。この時期、スーはラジオ・エンジニアのリチャード・ラドマンとの結婚10年目で、とても幸せな様子が伺えます。「もうスー・リオンとは名乗りません」とし、スーリン・ラドマンとしています。そんな結婚生活も結局は2002年に破局するのですが。(詳細は こちら )  この1994年という時期は、それまで4回も結婚と離婚を繰り返した挙句にやっと相手にも恵まれ、スーにとって最も幸せな時期だった事はまちがいないでしょう。それに経済的にもビデオ化された『ロリータ』からそれ相応のギャランティがスーの懐を潤していたはず。「私の成功の理由はあなたがいたから」なんて殊勝な事を書いているところを見ると、そんな近況が読み取れます。「私の人格崩壊は『ロリータ』から始まった」などと言っていたのに随分な変わりようですね。それは手紙の最後を「お便り待ってます」で結ぶあたりにも伺えます。  実際にキューブリックが返信を書いたかどう...

【関連動画】スー・リオンが『ロリータ』でロリータ役に抜擢されるきっかけになった『ロレッタ・ヤング・ショー』の動画

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 これはレアですね。『ロリータ』のキャスティングが難航した話は ここ で記事にしましたが、スー・リオンがロリータ役を射止めたのは、この『ロレッタ・ヤング・ショー』に出演しているのをキューブリックが観たのがきっかけでした。まさにそのフィルムが存在していたとは・・・。おそらく動くスー・リオンが拝める一番古いフィルムだと思われます。  ここでのスーはローリーというちょっと小悪魔で意地悪な少女を演じています。『ロリータ』で魅せた妖しい魅力も既に発揮されていますね。この時スーは13歳なのですが、とてもそうは見えません。でも、いかにもアメリカン・ガールな太ましさの中にもクールで意味深な憂いもあり、そこがキューブリックのお眼鏡に適ったのでしょうね。

【台詞・言葉】私たちは心が広い(We're both broad-minded)

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 『ロリータ』でジーンがハンバートにこう問いかけるのは、いわゆる「夫●交換(ス●ッピング)」を指しての事でしょう。「大学教授で作家でもあるあなたと同じように、私たちも進歩的文化人なのでこういった〝革新的な〟関係も結べますよ」という意味ですね。もしくはそういった人たちが集まっているダンス・パーティーなので、その場にいるキルティも進歩的文化人である、と示すためでしょう。ただハンバートは思想的にも性的にも「勘が悪い」ので、その真の意味になかなか気づかない・・・という図式が『ロリータ』では繰り返されます。  こういった「進歩的思想」に対する皮肉や、性的暗喩は表現を検閲機関に大幅に規制されたキューブリックのせめてもの抵抗なのですが、その意図をちゃんと理解して鑑賞するなり批評するなりして欲しいですね。その意味ではキューブリック作品の中では一番誤解され、冷遇されているのがこの『ロリータ』ではないか、そう考えます。

【プロップ】1957年型フォード・カントリーセダン(Ford Country Sedan 1957)

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 『ロリータ』でハンバートとロリータが旅をする際に乗っていた車。実際はヘイズ家所有の車だった。  アメリカ各地をドライブするシーンは第二版がアメリカロケをし、スー・リオンの代わりにキューブリックの妻、クリスティアーヌが乗っていたそう。つまり「お前アメリカロケに行ってきてくんない?俺も行きたいけど、こっち(イギリス)での撮影もあるから忙しくて行けないんだよ」「何言ってんの、飛行機乗るの嫌だから行きたくないって正直に言いなさいよ!」という会話がキューブリック家であった・・・のかも知れない。

【関連動画】エンド・オブ・ザ・ワールド/死を呼ぶエイリアン脱出計画

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 映画好きも長い間やっているとだんだん耐性ができてしまい、めったな作品では感動できなくなってしまうという弊害を生んでしまいます。そうなると嗜好があらぬ方向に向かってしまい、カルトやB級、さらにそれらさえも超越した「Z級」を好むようになるという困った事態に。以前ご紹介した『恐怖と欲望』のヒロイン、ヴァージニア・リースが出演していた『死なない脳』もそうですが、こういった作品を見つけた時の香ばしい気持ちと言ったら!!・・・いえ、何でもないです(汗。  そんな管理人が見つけたZ級映画である、この『エンド・オブ・ザ・ワールド/死を呼ぶエイリアン脱出計画』ですが、何故この作品を取り上げたのかというと『ロリータ』ではスクリーンの外と中でしか共演できなかったスー・リオンとクリストファー・リー(ロリータを驚かせたフランケンシュタインの怪物)が、堂々と(!)共演しているからです。しかも主人公の妻と神父(敵のボス)というメインキャストで。  ただこの作品、早送りしないで観るのはとても困難を伴います。つまり見せ場がほとんどないグダグダ展開で、かったるくってしょうがない。これってひょっとしたらZ級ではなくて単なる駄作なのでは・・・と思ってしまうのですが、まあそれを「味」として嗜みましょう。その苦労は一瞬見せる神父の正体と唐突なラストシーンで報われ(?)ますので。

【関連動画】ドキュメンタリー『ピーター・セラーズ・ストーリー』のキューブリック関連部分の動画

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 1995年、イギリスBBCの『アリーナ』で放映されたドキュメンタリー、『ピーター・セラーズ・ストーリー』のキューブリックに関する部分のみ抜きだした動画です。ピーター・セラーズ邸の裏庭のテニスコートでクリスティアーヌとペアでテニスをするキューブリック(相手はプロデューサーのジェームズ・B・ハリス)というレアなシーンも面白いですが、セラーズとカメラマンのウィージーとのやりとりが録音されているテープは貴重です。『博士…』のストレンジラブ博士の口調は、当時キューブリックが映画のスチール撮影に招聘していたウィージーの口調を真似たものですが、何故かこの事実はあまり知られていなくて、未だにキッシンジャーがモデル(キューブリックもセラーズもキッシンジャーを見たこともなかったのにも関わらず)などという間違った認識が広まったままになっています。  他にはクリスティアーヌが「特徴的」と語っていたキューブリック独特の足の組み方も映像で確認できますね。クリスティアーヌはそれがよほど印象的なのか、死去直後にそれを『スタンリーの思い出』という絵の中に描いています。

【名曲】ロリータ・ヤ・ヤ(Lolita Ya Ya)

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サントラ収録のオリジナル・バージョン 日本でもおなじみベンチャーズ・バージョン 謎なシェリー・ウィンタースのバージョン  『ロリータ』のテーマ曲として書かれたこの曲、映画用オリジナル曲としてはキューブリック作品中最大のヒット(アビゲイル・ミードが書いた『フルメタル・ジャケット』はサントラ収録用楽曲なので厳密には映画用オリジナルとは言えない)だったようで、様々なアーティストのカバー音源が残されています。  有名どころでは日本でもおなじみのベンチャーズ、ザ・クレバーズ、オーケストラ・デル・オロ、そして最大の謎バージョンなのが『ロリータ』の母親役だったシェリー・ウィンタースが歌ったもの。どういう経緯でこのバージョンが残されたのか知りませんが、なんともまあ珍妙な味わいですね。  因にこの曲にネルソン・リドルと並んでクレジットされているボブ・ハリスとはプロデューサーのジェームズ・B・ハリスの実弟です。どうやらハリスがキューブリックに頼んで採用してもらったそうです。

【スタッフ】オズワルド・モリス(Oswald Morris)

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Oswald Morris(IMDb)  『ロリータ』の撮影を担当したイギリスの撮影監督。モリスにとって『ロリータ』の仕事は決して楽しいものではなかったらしく、二度とキューブリックと働きたくないとし、  「彼は例えば、『このシーンは、セットの真ん中に電球が一個しかないような明るさで撮影したい』と言った」「十五分後彼はやってきて『あの照明の多さはなんだ。電球一個だと言ったじゃないか』という。僕は『正真正銘、電球一個分の明るさだ』と答えた。要するに彼にたて突いた・・・だからいつも喧嘩していた・・・照明について尋問に次ぐ尋問。しまいにはうんざりした」 (引用:映画監督 スタンリー・キューブリック) と語っている。  他の主な参加作品は『熱砂の掟』(1950)、『黄金の竜 』(1950)、『黒い傷 』(1951)、『砂漠の悪魔』(1951)、『孤島の愛情』(1952)、『赤い風車 』(1952)、『砂漠の決闘 』(1953)、『かくて我が恋は終りぬ』(1953)、『悪魔をやっつけろ』(1953)、『騎士ブランメル』(1954)、『しのび逢い』(1954)、『白鯨』(1956)、『武器よさらば』(1957)、『白い砂』(1957)、『自由の大地』(1958)、『鍵』(1958)、『怒りを込めて振り返れ』(1959)、『ハバナの男』(1959)、『寄席芸人』(1960)、『ナバロンの要塞 』(1961)、『誘惑の夜』(1962)、『可愛い妖精』(1962)、『翼のリズム』(1963)、『脱走計画』(1963)、『人間の絆 』(1964)、『女が愛情に渇くとき』(1964)、『丘』(1965)、『湖愁』(1965)、『ジャングル・モーゼ』(1965)、『寒い国から帰ったスパイ』(1965)、『じゃじゃ馬ならし』(1967)、『禁じられた情事の森』(1967)、『キャサリン大帝』(1968)、『オリバー!』(1968)、『チップス先生さようなら』(1969)、『ポンペイ殺人事件』(1970)、『クリスマス・キャロル』(1970)、『探偵<スルース>』(1972)、『レディ・カロライン』(1973)、『マッキントッシュの男』(1973)、『凄惨!狂血鬼ドラキュラ』(1974)、『オデッサ・ファイル』(1974)、『007/黄金銃を持つ男 』(1974)、『王になろうとした...

【関連記事】英国の撮影監督オズワルド・モリス氏死去

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『ロリータ』のロケで天候を気にするモリス(左)とキューブリック   英国の撮影監督オズワルド・モリス氏が17日、英南部ドーセット州の自宅で死去した。98歳。20日付の英紙デーリー・テレグラフなどが伝えた。死因は明らかになっていない。  15年、英南部生まれ。第2次大戦中、爆撃機パイロットとして英空軍に勤務した後、撮影監督としてデビュー。50~70年代を中心に「白鯨」(56年)や「ロリータ」(62年)など多くの映画に携わり、ジョン・ヒューストン監督やスタンリー・キューブリック監督らと仕事をしたことでも知られる。  撮影監督を務めた「屋根の上のバイオリン弾き」(71年)で、米アカデミー賞の撮影賞を受賞した。 (引用: ニッカンスポーツ/2014年3月20日 )  『ロリータ』で撮影を担当したオズワルド・モリスが逝去されました。98歳とはずいぶんと長命でした。ご冥福をお祈りいたします。

【関連動画】1962年と1987年、スー・リオン16歳と41歳のインタビュー映像

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 1962年と1987年のスー・リオンのインタビュー映像です。上が16歳、下が41歳の時のもの。年月は残酷ですが、それでも41歳にしては若いですね。この頃はラジオ・エンジニアの男性と5度目の結婚をしていた頃で、結婚生活は7年「も」続きました(他が短すぎますからね。詳細は ここ で)。16歳のインタビューは『ロリータ』のプロモーション用でしょうか。撮影の感想や出演のいきさつ等を答えているようです。  因にスー・リオンは同じく1962年に プロモーションで来日 しています。