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【作品論】キューブリック作品のランキングと作品論

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 当ブログ管理人のキューブリック作品の評価ランキングと作品論をご紹介いたします。あくまでいちファンの個人的見解・解釈です。当ブログの作品評価や論評、各種嗜好の傾向もこれに準じています。自説はあくまで一説です。読者に強要する意図はありませんので参考程度にどうぞ。 1位 【作品論】『2001年宇宙の旅』 ★★★★★ 2位 【作品論】『アイズ ワイド シャット』 ★★★★★ 3位 【作品論】『バリー・リンドン』 ★★★★★ 4位 【作品論】『時計じかけのオレンジ』 ★★★★ 5位 【作品論】『フルメタル・ジャケット』 ★★★★ 6位 【作品論】『ロリータ』 ★★★★ 7位 【作品論】『突撃』 ★★★★ 8位 【作品論】『シャイニング』 ★★★ 9位 【作品論】『博士の異常な愛情』 ★★★ 10位 【作品論】『現金に体を張れ』 ★★★ 11位 【作品論】『恐怖と欲望』 ★★ 12位 【作品論】『スパルタカス』 ★ 13位 【作品論】『非情の罠』 ★  ちなみに「好きな作品ランキング」になると以下のようになります。「評価」と「好悪」はあくまで別の感性です。よく混同されがちですので、評価とは別に紹介させていただきます。 【1位】『シャイニング』 【2位】『時計じかけのオレンジ』 【3位】『博士の異常な愛情』 【4位】『フルメタル・ジャケット』 【5位】『ロリータ』 【6位】『2001年宇宙の旅』 【7位】『アイズ ワイド シャット』 【8位】『バリー・リンドン』 【9位】『現金に体を張れ』 【10位】『非情の罠』 【11位】『突撃』 【12位】『スパルタカス』 【13位】『恐怖と欲望』  けっこう違いますね。1位から5位まではちょっと主人公や登場人物がキちゃってる系の作品です。『シャイニング』は最初の面接のシーンでジャックがニヤっとしただけでもう楽しめちゃいます。アレックスやディム、ストレンジラブ博士にリッパー将軍、ハートマンやパイル、ハンバートとキルティ・・・一癖も二癖もある連中が暴れ回るのは観ていて楽しいですね。6位から8位は高い評価はしているのですが、しょっちゅう観たいとは思わないのでこの順位になります。9位、10位は犯罪ものですか、どこかシニカルな感じがあって好み。11位、12位はカーク・ダグラスのステレオタイプなヒーロー演技が苦手なのでこの順位になります。特に12位は...

【作品論】恐怖と欲望(Fear and Desire)

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Fear and Desire(IMDb)  キューブリック初の劇場用長編映画『恐怖と欲望』。若干25歳のキューブリックが作り上げたこの作品にははっきりとキューブリックの強い意志が込められている。それは通常の劇映画ではあまり試みられてこなかった「映像で語る」という手法だ。短く挿入されるインサート・カットやヴォイス・オーバーの多用、凝ったカメラアングルや画面構成、影を巧みに使った演出など、後にキューブリックのスタイルを象徴する手法が頻出している。キューブリックは最初から「演劇的映画」との決別を考えていたのだ。  だがそれは後年の洗練さとはかけ離れた、いかにも青臭く、気取りだけが鼻につく稚拙なものだった。加えていかにも低予算ありきで作られた雑な脚本、敵と味方が同一の役者で演じられるという苦し紛れのキャスティング、飛行機や敵基地等、必要な大道具やセットを用意できなかった為であろう安っぽい映像・・・。キューブリックが後年封印したがるのも無理のない低質な完成度だった。  斬新な映像表現にたいする自信と意欲、その反面求めたクオリティには到底及ばない様々な現実。キューブリックは次作『非情…』からはあえて「演劇的映画」へと舵を切り、まずは興行的成功と知名度のアップを目指すようになる。時折「映像で語る」という手法をチラつかせつつも、それは『ロリータ』まで約10年我慢しなければならなかった。  本作で着目すべきは、若干25歳にしてはっきりと自身の目指す映像表現のアイデアに確固たる自信と確信を持っていた、という事実だ。それを確認できるだけでもファンにとっては価値ある映像だろう。キューブリックが封印したという事実に鑑み、鑑賞を自粛する考えもあるようだが、未公開映像ならともかく、いったんオフィシャルに上映された以上それを取り消す事はできない。それはどのジャンルのアーティストも同じだ。これについてはキューブリックに諦めてもらうしかなさそうだ。

【作品論】薔薇の葬列

 1960年代の新宿のアングラシーンのドキュメント+当時無名のゲイボーイ、ピーターを主人公にしたオイディプス劇。この説明で全て言い表せてしまうほど内容が薄い映画が本作品だ。  この時代にありがち(あえてそう言わせていただく)なサイケデリックでエロでグロで意味不明で混濁しているこの世界観は当時の若者の流行で、特に目新しい物ではない。それは当時の新宿のありきたりな一風景でしかなかったのだ。現在ではその雰囲気の片鱗さえ味わうのは困難なため、今の視聴者には斬新で新鮮に映るかもしれない。  とにかく過激で奇抜な事をやらかせばやらかす程「飛んでる」ともてはやされた時代である。こういった実験映画(これも当時は最大級の賛辞だった)や前衛演劇はアングラと呼ばれて一定の指示を集めていたのだ。そこに明確なメッセージや哲学などありはしない。ただ難解であればあるほど良しとされていたのである。  今から考えれば幼稚な話で、反抗期を拗らせたモラトリアムの成れの果てでしかない。そういった批判を予見してか、ところどころ「ちゃちゃ」を入れたり、冗談めかしてごまかしたり、撮影の裏側を見せたりインタビューシーンを入れて「いや、単なるお遊びだから、フィクションだから」と逃げ道まで用意している小賢しさである。真面目に論評するのも馬鹿馬鹿しくなる低レベルな代物だ。  そんな調子だからどこかで借りて来たような表現ばかり目につく。この監督が当時すでに下火だったヌーベルバーグに影響を受けている事は明白で、それに当時最先端のトレンドだったサイケデリックの要素を加味したに過ぎない。実はこの手の「実験映画」は世界中(主にヨーロッパ)で腐るほど作られた。だがその殆どは時の流れの中で淘汰されてしまい、今では一部の名作を除き顧みられる事は殆どない。  この作品がその「一部の名作」になり得なかった事自体、その価値を証明している。キューブリックの『時計じかけのオレンジ』に影響を与えた、与えない以前の問題として「当時ゴマンとあったアングラ実験映画のひとつ」という認識は正しく持っておくべきだろう。

【作品論】霊界から現世を眺望(オーバールック)する『シャイニング』

  『シャイニング』のラストシーンにおいて一般的にはジャックはホテルに取り込まれた、とする解釈が一般的かと思います。実際に取り込まれた姿が1921年7月4日の写真に写っています。でも本当にそうでしょうか?  私はジャックは「取り込まれた」のではなく「本来居るべき世界に帰還した」と考えています。つまり現世でダニーの父親でありウェンディの夫であるジャックこそが「イレギュラー」な存在であって、本当はそこに居てはいけなかったのです。「その昔からホテルに棲み、管理人をしていたジャックは、何かの拍子で現世に生まれ落ちてしまい、大人になりウェンディと結婚しダニーをもうける。でも現世に自分の居場所などない事に気づき、引き寄せられるようにホテルへと辿り着く。そこでジャックは既視感を憶え、ウェンディが逃げ出そうとするのを殺そうとまでして阻止し、ホテルに残ろうとする。そして望み通りに本来の自分の居場所へと帰ってゆく・・・」そんな物語を想像してしまうのです。  そう考えればジャックの息子であるダニーが霊能力(シャイニング)を持っているのは当然だし、グレイディが「あなたはずっとこのホテルの管理人でした」と答えるのも道理です。ではそのグレイディはというと、現世でホテルの管理人だった時はチャールズ・グレイディという名前で、双子の娘と妻がいました。やがて彼女らを惨殺して本人も自殺、無事に本来のウエイターとしてホテルに帰還すると名前も本来のデルバート・グレイディに戻ります。また、ロイドもグレイディもジャックの事を一貫して「トランス様」「トランスさん」と呼び、決して「ジャック」とは呼びません。この事からジャックはグレイディと同様にジャックとは違う本来のファーストネームを持っている可能性があります。つまりラストシーンに映っているジャック・トランスは「●●●●・トランス」なのです。  やがてグレディの犠牲になった娘は霊となってホテル内を彷徨います。(実の親子ではないのでグレイディはジャックに「母娘はどこにいる?」と訊かれて「近くです」「よく存じません」と曖昧な返事をする)つまり、ダニーやウェンディはジャックに殺されればこの母娘と同じように、ホテルの中を霊として彷徨う運命になっていたかも知れないのです。そう考えればかなり危険な状況だった事が分かります。その代わりと言ってはなんですが、ハロランが新たな...

【作品論】モッズムーブメントと『時計じかけのオレンジ』

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 1991年にVHSビデオソフト(16,800円!)として発売される以前は、『時計じかけのオレンジ』を観るためには名画座でのリバイバル上映を待つしかなかったのですが、幸運にも1985年頃大阪(今は亡き大毎地下)で観る事ができました。(ボカシつきのやつですね)それまではアンソニー・バージェスの原作で我慢するしかなかく、何度も何度も読み返していたものですから、キューブリックの映画版を初めて見た時は結構醒めていて「なんじゃこのカラフルさ加減」とか「目がチカチカする」とか「いちいちエロいな」とか思いながら観ていたのを憶えています。それもそのはず、原作はモノトーンでくすんだイメージがあったものですから、そのあまりの違いに違和感があったのでしょう。キューブリックの映画版が自分の中での『時計…』になってましってからは、すっかりその事を忘れてしまっていたのですが、  「バージェスは、デディ・ボーイズやモッズやロッカーズなど、イギリスの不良集団を目撃したことがあった」 (引用:『映画監督 スタンリーキューブリック』) との一文を読んで、当時自分が持った印象は間違っていなかったんだ、と再認識したのです。  モッズムーブメントについては今更説明するまでもなく、上記の映画『さらば青春の光』</a>を観れば一発です。そうなんです、この陰鬱とした、鬱屈したモノトーンのイメージがバージェスの『時計じかけのオレンジ』なのです。R&Bやロカビリーをベートーヴェンに、ヴェスパをディランゴ95に置き換えればバージェスが描いていた世界そのままです。主人公のジミーが湯船につかりながらキンクスの『You Really Got Me』を歌ったりしてますしね。モッズの聖典と化しているこの映画を、映像化されなかったバージェス版『時計じかけのオレンジ』と思って観るのは We are the MODSな人たちに怒られそうですが、参考にはなりそうです。もちろん名作ですから未見の方も純粋に映画としても楽しめます。『時計…』が好きなら気に入る可能性大。おすすめです。 追記:この『さらば青春の光』で主人公ジミーを演じたフィル・ダニエルズはバージェスが改訂した舞台版『時計じかけのオレンジ2004』でアレックスを演じたそうです。

【作品論】海の旅人たち(The Seafarers)

 キューブリックが1953年6月に船員国際労働組合の広報用に撮影技術だけを提供したドキュメンタリー。クレジットには「監督・撮影」とあるが、実際には雇われ仕事として撮影を担当したに過ぎなかったようだ。もちろん編集も担当していない。  当時25歳のこの時点でドキュメンタリー映画3本(内1本は未確認)、劇映画を1本製作していたキューブリックは、初めてカラー作品あるにも関わらず、海千山千の海の男たちを向こうに回して堂々とカメラを回していた事にまず驚く。これは年配のベテランカメラマンの仕事と言っても誰一人疑う者はいないだろう。キューブリックは以前勤めていたルック社の得意先であるアメリカ労働総同盟から、メキシコ湾岸地域事務所の広報映画を作りたいとのオファーがあり、これを引き受けたようだ。  内容は特に特筆すべきものはなく、組合の活動内容の紹介に終始し、関係者以外にとっては退屈以外の何物でもない。並々ならぬ映画への情熱とこだわりがあったキューブリックが、単なる広報映画のオファーを引き受けた理由は分からないが、カラー撮影の経験ができる、この春に公開になった初めての劇場用作品『恐怖と欲望』の制作費の穴埋めになる等の考えがあったであろう事は容易に想像できる。それだけキューブリックは自らの映画監督としての才能に賭けていたのだ。そのためならこの程度の撮影技術の提供なら致し方ない、と割り切っていたのではないだろうか。  ただ、最大の誤算はその後あまりにも偉大な監督になりすぎてしまい、本来なら時の彼方に埋もれて、忘れ去られてしまう筈のフィルムがこうして陽の目を浴びてしまったことだろう。YouTubeという誰でも視聴できるプラットホームに堂々とアップロードされているさまをキューブリックが知ったら、さぞかしバツの悪い思いをするに違いない。

【作品論】拳闘試合の日(Day of the Fight)

 キューブリックが生まれて始めて製作・撮影・監督した映像作品は、映画館で上映されるニュース・フィルムという形で実現した。その後の映画監督してのキャリアは、全てこの16分のモノクロ短編映画から出発したという意味で、非常に価値のある、記念碑的作品だ・・・とはいえ、観ていただければ分かる通り、当時のニュース・フィルムの範疇を超えるものではなく、ごく当たり前でありきたりな物。キューブリックが製作したものでなければ時の彼方に忘れ去られ、棄てられていたであろう。  ただし、この時キューブリックはまだ21歳。そんな若造が制作費3900ドル(約140万円。ただし実際は4500ドルかかったという話も)を自力で調達し製作、それを配給会社に4000ドル(約144万円)で売りつけるという事をやってのけたのであり、この事実だけでも特筆に値する。21世紀の現在でも、ここまでの強い自信と野心を持って行動できる若者がどれほどいるだろうか。  映像的には洗練され、当時のプロの水準に達していることは疑いない。登場するボクサーとマネージャーは個人的にも交流のあった双子の兄弟。キューブリックは映像デビューするにあたり一番身近でコントロールしやすい取材対象を、スタッフも身近な友人・知人ばかりを集め、なおかつ金銭面も自己資金で賄い、不足分は父に借りるなどリスクを最小限に抑えて作品を創っている。一見保守的で後ろ向きな方法と思われがちだが、要するに全て自分のコントロール下に置きたかったのだろう。失敗できないというプレッシャーもかなりあったに違いない。  「成功しても失敗してもリスクは全て自分が負う。そのかわり自分の作品に関する事柄には全て関与する」この方針はこのデビュー作以降、『スパルタカス』を除き生涯変わることはなかった。

【作品論】『メイキング・ザ・シャイニング』(原題:Making The Shining)

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Making The Shining(IMDb)   キューブリックの三女、ビビアン・キューブリックが父親から贈られたカメラで撮影した、『シャイニング』製作の裏側。イギリスのTVシリーズ「アリーナ」の一編として、1980年に放映された。一時はレア・アイテムとして入手・鑑賞は困難だったが、現在はDVDやBDの特典映像として容易に観る事ができる。  あまり舞台裏を明かさないキューブリックが、身内だからこそ許せたであろう、『シャイニング』のメイキング・フィルム。ジャック・ニコルソンやダニー・ロイド、スキャットマン・クローザースのインタビューや、撮影現場の裏舞台、演出や撮影に細かく指示を出すキューブリックの姿など、貴重な映像は多々あるが、特にウェンディ役のシェリー・デュバルをとことん追い込んで行く演技指導は圧巻だ。手慣れた役者らしい演技を嫌うキューブリックにとって、シェリーの演技はわざとらしくとしか映らなかったのだろうが、この徹底ぶりには少々驚かされる。揚げ句、プレッシャーに堪えかねたシェリーは、撮影中に倒れてしまうのだから、実際はもっとすごかっただろうと容易に想像できる。  それでも殊勝にインタビューに応えるシェリーに、痛々しさを感じずにはいられないが、彼女はキューブリックの求める理想の役者像とは違うと思われるので、仕方ないことかも知れない。キューブリックは、自分で自分を追い込める役者(ピーター・セラーズ、マルコム・マクドウェル、ジャック・ニコルソン等)には、比較的自由に演技をやらせているが、それが出来ない役者には、徹底して高圧的になっているようだ。だが、そのことで誰もキューブリックを責めることは出来ないだろう。何故なら、この撮影現場で一番強大なプレッシャーを受けているのは他ならぬキューブリック自身だからだ。

【企画作品】『燃える秘密』(原題:Burning Secret)

  1956年に『現金に…』を知ったMGM制作部長ドーア・シャリーが、自社が映画化権持っている小説を見せたところ、ハリスとキューブリックはシュテファン・シュヴァイツの『燃える秘密』を選び、7万5千ドルの予算と40週間の期間で脚本化する契約を結ぶ。しかし、当のシャリーがMGMを解雇されたため、企画自体が消滅した。  ストーリーは、ヨーロッパのリゾート地で旅行中の幼い子を持つ妻が、男に誘惑されるというもの。この小説自体は、1988年になって、アンドリュー・バーキン監督により『ウィーンに燃えて』の邦題で映画化された。

【作品論】『空飛ぶ牧師』(原題:Flying Padre)

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Flying Padre(IMDb)  ネットは今や動画が当たり前となり、こんな貴重な映像が手軽に観られるようになったのは、大変喜ばしい事ではあるのだが、著作権的には限りなくクロに近いグレーなので心情的にはちょっと微妙。まあ、その是非はともかく、観れるものなら観たいのがファンというもの。アップした方に感謝しつつ、堪能させて頂きました。  内容は、ニューメキシコ州のフレッド・スタットミュラー牧師が、軽飛行機に乗って教区を飛び回る活躍をレポートしたもので、当時、映画館で流れていたニュースフイルムとして一般的な作り。キューブリックが監督したものでなければ、今となっては全く価値のないフィルムだっただろう。後に飛行機嫌いになるキューブリックだが、'51年当時はまだ飛行機に夢中で、恐らく牧師の飛行機に同乗してカメラを回したのではないだろうか。  短いフィルムだが、キューブリックらしさを感じるシークエンスはある。まず、子供が病気になるという緊急事態での離陸で、操縦する牧師の横顔にスロットルを操作する映像がインサートされるシーン。こういう編集はキューブリックの得意とする所で、その場の緊張感がよく表現されている。  また、ラストシーンの、救急車の中から親子の目線で離れて行く牧師を撮影し、それにエンドマークをかぶせるというセンス。通常なら牧師と飛行機を手前に配し、その奥に向かって救急車が走り去り、牧師が親子の無事を願って見送る・・・とする所を、あえて母親の目線で撮影する事によって、より牧師のヒーロー像を強調している。まあ、キューブリックが単にあまのじゃくなだけかも知れないが。  全般的にはヤラセ感ありありで時代を感じさせるものではあるが、大変貴重なフィルムなのは間違いない。ニーズはあると思うので、然るべき所が、然るべき手順で、然るべきメディアで発売して欲しい。もちろん、残りの未公開フィルム『拳闘試合の日』、『海の旅人たち』、『恐怖と欲望』も併せてお願いしたい。

【関連作品】『A.I.』(原題:A.I. Artificial Intelligence)

  キューブリックが20年の歳月をかけて積み重ね、練り上げたプロットを、ワーナーに期限を切られたとはいえ、たった1年(撮影は68日)で完成させてしまったスピルバーグに、高い完成度と深い思想性を求めるのは少し酷なことかも知れない。だが、この雑な作品をどうしても高く評価できないのは紛れもない本心だ。  物語の根幹は「愛」にあることはキャッチコピーが示唆する通りだが、物語は終始「愛すること」、「愛されること」の行為のみに終始し、「愛とは何か?」という本質的な問題はおざなりにされてしまっている。キューブリックは、人間であれ、機械であれ、かりそめの肉体に「愛すること」をインプットされている点では対した違いはないと考え、愛の行為のみに終始し、「愛の本質」を考えようとしない人間に対して疑問を投げ掛けている。それは、同じ「愛する行為」ながら全く相反する(母性愛と性愛)プログラムをインプットされたデイヴィッドとジョーに象徴されているのだが、本来なら、もっと「愛の本質」について疑問を持ち、絡まなければはらない二人の機械は、「本物の人間になりたい」や「子供にはわからない」などの簡単な台詞のやりとりに終始し、全く話が深まっていない。  キューブリックはこのプロットの映像化に当たり、本物のロボットを欲しがったと言う。この事は、キューブリックの完全主義者ぶりを象徴するエピソードとして有名だが、この物語の主題を、「愛の本質の追求」と考えるならば、それも納得のいく話かも知れない。何故なら、映像的に完全なロボットに見えれば、「機械が愛を求める姿」に強烈な違和感を覚えるはずで、それが機械的に「愛する行為」のみを求める人間の姿を逆説的に象徴させることができるからだ。スピルバーグの失敗は、この二人の重要なキャラクターに魅力的な俳優(ハーレイとロウ)をキャスティングしてしまったがために、中途半端な感情移入を呼んでしまった点にある。  スピルバーグの失敗はそれだけではない。雑な脚本やご都合主義なストーリー展開は、製作期間の短さを考慮して大目に見るにしても、物語の後半に頻出する説明的なセリフのオンパレードや、未来人(機械人?)の映像化は、観るものをシラけさせるのに絶大なる効果を発揮している。  キューブリックが目指したのは、ピノキオを下敷きに、おとぎ話的ファンタジーに彩られつつも、「愛の本質」を現代人に...

【作品論】突撃(原題:Paths of Glory)

  カーク・ダグラスという大物俳優をキャスティングした意欲作。第一次世界対戦中、フランス軍で実際にあった事件を基にして書かれた反戦小説『栄光の小径』の映画化で、昇進をほのめかされたフランス軍の将軍が、成功不可能な「蟻塚作戦」を無理矢理遂行したが、作戦は見事失敗し、さらには臆病者だとして、見せしめに3人の無実の兵士を、簡単な軍法会議を経ただけで処刑してしまうという物語。  難しい題材である反戦小説であるがゆえに製作会社も尻込みしてしまい、なかなか製作に漕ぎ着けなかったが、前作『現金に…』を好意的に観ていたカークが脚本を気に入ったため、プロジェクトは実現に向けて一気に動き出した。  その題材ゆえ、フランス国内でのロケを断念したり、映画を当てたいキューブリックが勝手にハッピーエンドに脚本を書き換え、カークを激怒させるなどのトラブルもあったが、様々なプレッシャーの中、大物俳優を使いこなし、自らの主張を堂々とフィルムに焼きつけている点では、初期キューブリックの完成形として考えて間違いないだろう。  ここでのキューブリックは、所謂「映画」としての枠組みの中で、最大限その個性を発揮している。原作が反戦小説とされていただけに、この作品も反戦映画と評されることが多いが、むしろ戦争そのものよりも、戦争を遂行する権力システムの中に潜む矛盾や独善、そのツケを末端の兵士の命に払わせようとするエゴや傲慢さを糾弾していて、それは『博士…』や『フルメタル…』にも通底しているものだ。まるでスティディカムのように滑らかに塹壕の中をすり抜けていくカメラや、突撃シーンに見られる、その後の『フルメタル…』での市街地突入シーンを彷彿とさせる平行同時移動ショットなど、キューブリックにしか出せないカメラワークを駆使した演出・撮影・編集は、すでに「巨匠」の風格を感じさせるものにさえなっている。  「映画」としての魅力に溢れる本作は、一般的な映画ファンにもとっつきやすいのか、公開当時から今日に至っても極めて評価が高い。メジャー2作目(劇場用映画としては4作目)にしてすでに「映画監督」としてピークを迎えたキューブリック。凡庸な監督ならこの時点で自己模倣に入るのだが、そんなちっぽけな地位にキューブリックが満足する筈もなく、自分にしかできない個性的で野心的な「映像表現」を目指して、更なる挑戦を続けていく事になる。 ...

【作品論】『現金(ゲンナマ)に体を張れ』(原題:The Killing)

  前作『非常の罠』の製作中に知りあった、プロデューサー志望のジェームズ・B・ハリスとコンビを組み、「ハリス=キューブリックプロ」を結成。その素人同然の若い二人がハリウッドに乗り込んで作った、キューブリック実質の的なメジャーデビュー作品。  物語は、競馬場の馬券売場を襲い現金を奪う計画を、5人の男達が緻密な計画と正確な行動で実行したものの、ちょっとしたミスから破綻してしまうというもの。いかにもキューブリックが好みそうな物語だが、この本を見つけ、キューブリックに奨めたのはハリスだった。  ハリウッドでは組合の力が強いため、カメラを覗けなくなったキューブリックは、ベテランカメラマン、ルシアン・バラードとかなりの軋轢を起こしたようだ。例えば、競馬場の外観も、ハリウッド的に綺麗に撮られたものをしようせず、小型カメラでニュース映像風に撮り直したり、室内を画像の歪みも承知の上で広角で撮影したいと主張したりしている。犯罪サスペンスの臨場感と緊張感を生み出す効果を狙っての事だが、綺麗に平板に撮る事を良しとした当時のハリウッドでは、全く理解されなかった。  また、犯罪の瞬間からひとりずつ時間を戻して、この犯罪に荷担しなければならなかった背景を、それぞれについて語るという手法は斬新なものだったが、これもハリウッドの上司は認めず、時系列に添った、より直線的な編集をするように指示した。しかし、原作のこの構成が気に入っていたキューブリックとハリスはそれを無視。このまま公開する。  結局この映画はヒットとはならなかったが、幸いにも業界内では話題となったため、その映像センスと斬新な構成は高く評価され、ハリウッド内での地位を築く最初の足掛かりとしての役目は充分果たしたようだ。  ラストシーン、飛行機のプロペラの風にあおられて舞い上がる200万ドルは、「小さな紙切れ」に執着する人間をあざ笑うかのようで、愚かしくも悲しい物語のラストを飾るにふさわしいものだった。メジャーデビュー作にしてこのシニカルなエンディングを用意するあたり、自身の思う通りに撮れなかった作品ではあるにせよ、ただ者ではない事を感じさせるには充分な作品だ。

【作品論】『非情の罠』(原題:Killer's Kiss)

  前作の『恐怖と…』の好評に手応えを感じ、1955年に続けて製作された自主製作映画第2弾。この映画の製作時、キューブリックはまだ若干26歳という若さだった。  ストーリーはよくあるサスペンス&メロドラマという感じで、特に見るべきものはないが、映像的にはすごく大人びていて、とても20台半ばの若者が創った映画とは思えない。 構成がいきなりラストシーンから始まり、回想シーンになり、またラストシーンに戻ってくるという、後の『ロリータ』にも用いられている方法なので、「この頃からやってたいんだな」と妙な感心の仕方をしてしまった。また、主人公のデイヴィが見る悪夢のネガ・フィルム(『2001年…』のスターゲートの「原始の惑星」)や、悪漢の手下の手に握られたトランプのズーム・アップ(『博士…』のB-52の暗号封鎖シーン)、マネキン工場での斧を使った格闘シーン(『シャイニング』)など、その後のキューブリック演出の萌芽が見られるのはとても興味深い。だが、ラストシーン前のこの映画一番の見せ場、倉庫での格闘シーンがいまいち盛り上がりに欠けている。プロットが弱く、グロリアの性格付けも明確でなく、脚本も荒いためだろう。  また、1955年に再婚したバレリーナのルース・ソボトゥカがダンサー役でこの映画に出演している。「自分の嫁さんの踊っている姿を、スクリーンで観たい」いう理由だけで…。この映画に限らず、キューブリックが度々身内を役者やスタッフして使うのは、常に自分の身近にいるので、赤の他人よりコントロールしやすいという理由からなのかも知れない。  この映画が日本で公開された際、当時の輸入映画の制限枠のため、バレイのシーンなどカットし、短編映画として輸入、上映されたという経緯がある(のちにフル・バージョンでリバイバルされた)。お世辞にもいい作品とは言えないので、コアなファン以外にはお勧め出来ないが、キューブリックにしては珍しくハッピー・エンドだし、かなり商業性も意識した作りのため、そういう意味では貴重な作品と言えるだろう。  作品全般に漂う青臭さが気恥ずかしいのか、キューブリックはこの映画を振り返って「唯一誇れることは、私のようなアマチュアの環境で長編映画を創り、世界配給を成し遂げたものは、それまで誰もいなかったということだけだ」と語っている。その意味では「原点」とか「萌芽」とか堅...

【関連作品】『ロリータ(エイドリアン・ライン監督版)』(原題:Lolita)

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  Lolita(IMDb)  その内容や、「ジョンベネ事件」の影響もあり、ヨーロッパはひっそりと公開、日本でも単館ロードショーという地味な形で公開されたため、さして話題にならなかったという不幸な経緯はあるものの、確固たるビジョンがなかったのか、それとも圧力団体の干渉に屈したのか、中途半端で印象の薄い愚作と言わざるを得ない。  とにかく、このことごとくハズしたキャラ造形は全く理解できない。ロリータは単なるヤンチャな小娘だわ、ハンバートは知性も教養も感じられない単なる哀れな中年男だわ、キルティに至っては正体不明のデブときている。これでは原作やキューブリック版に見られる皮肉やユーモアの感覚が生きてこない。ましてやハンバートの少女趣味に同情的な解釈をするなんて、全く理解に苦しむ。台詞やシチュエーションは原作を丁寧になぞっているが、キャラクターにリアリティがないためハンバートがロリータに入れ込む動機、ロリータがキルティの許へと去る動機、ハンバートがキルティを殺す動機、全てに説得力を欠いている。  構成は、細かい違いはあるもののキューブリック版とほとんど同じで、ハンバートの回想を通してストーリーは進んでいく。違いは、ハンバートの妄想や性表現が、時代を経てかなり突っ込んだ表現になっていたり、映像のセンスがいかにも「90年代」的であったりする程度だが、それがこの作品に重要なファクターになりえているとは思えないし、ユーモアのセンスも、お世辞にも上手いとは言いがたい。  だが、構成は似通っていても、作品へのアプローチの仕方はキューブリックとラインでは180度異なっている。それはラスト、だらしない妊婦となったロリータに、かつての美少女の頃のロリータがオーバーラップするシーンに象徴されている。これではハンバートの少女趣味を理解し、肯定したことになってしまう。(大半の観客がそう受け取るだろう)つまり、この作品は「少年時代の悲劇的な失恋から立ち直れない、純粋で無垢な中年男の悲恋物語」であって、「男の身勝手な独占欲で歪められ、美化された少女像を打ち砕く辛辣な寓話」ではない、ということだ。『ロリータ』は原作もキューブリック版も中年男の悲恋物語などでは決して無い。それだけは明言しておきたい。  ほとんど同じストーリーラインをなぞりながら、全く異なる視点で描かれたふたつの『ロリータ』。当然リ...

【作品論】『恐怖と欲望』(原題:Fear and Desire)

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Fear and Desire(IMDb)  キューブリックの自主製作映画第1弾。また、記念すべき映画監督デビュー作。だが、残念なことにキューブリック自身が、この作品を「不器用で思い上がっている」として忌み嫌い、封印してしまったため、現在では見ることができない。だが、どういうわけかネガが流出してしまい、1991年のにはコロラド映画祭で、1994年にはニューヨークのフィルム・フォーラムで上映されてしまう。それに対してキューブリックは「訴訟も辞さない」と強硬な態度を取っている。  だが、資料を読み解く限り、キューブリックがそこまで忌み嫌う程の愚作とは思えない。ストーリーは、架空の国の戦争が舞台で、山中に不時着した小隊が、敵の前線をいかだを使って突破する途中、敵のアジトを発見し、それを襲撃するというもので、印象的なダイアローグと詩的な映像で、極限状況における人間の精神状態と自己のとの対峙(敵と味方が同一の役者で演じられている)といったテーマが語られているという。  製作資金は裕福な叔父のパーヴィラーに借り、スタッフは、ニューヨークのビレッジで知りあった仲間を総動員し、カリフォルニアのサン・ガブリエル山脈でロケが行われた。そのスタッフの中には、当時のキューブリックの妻、トーバも台詞監督として参加している。また、キューブリックは当時、アフレコの技術に疎く、撮影よりもアフレコに多くの費用と時間を費やしてしまったというエピソードが、いかにもカメラマン出身のキューブリックらしい。  当然、未見なので、あまり多くは語れないが、その後のキューブリックが一番多く扱ったジャンル(戦争物)でもあるし、ファンなら当然気になる作品だ。是非再上映、それが無理ならビデオソフトリリースでも構わないので。ワーナーや、キューブリック・プロの方には、是非検討していただきたい。 ※未見時の論評 初出:2006年6月27日  

【作品論】『スパルタカス』(原題:Spartacus)

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 Spartacus(IMDb)  キューブリックは本作品を全くコントロール出来なかったため、ハリウッドからの逃亡を決意させたという、いかにもアメリカ的な「自由万歳&ラブ・ロマンス」映画。  他のキューブリック作品に慣れてしまっている眼には、「本当にキューブリック?」と疑いたくなるような、おめでたいシーンの連続に辟易してしまう。とにかく、カーク・ダグラスの聖人君子的な演技や、ご都合主義のストーリー展開、出来過ぎた人格の奴隷たちや、お決まりのラブロマンスなど、所詮三文芝居の映像版でしかなく、腹が立つのを通り過ぎてあきれ返ってしまうたけ。  キューブリックは脚本の改訂を求めて、かなり激しくカーク・ダグラスや脚本のドクトル・トランボとやりあったという。だが、赤狩りでハリウッド追放中のトランボの描く「理想的な平等社会と、それを目指す英雄像」と、キューブリックが指向する「暴力と欲望が人間性の本質であり、生きる力」とでは合い入れる筈もなく、結局若いキューブリックが折れてしまう。この時のシコリが元で、ダグラスは自伝でキューブリックの事を「才能あるクソッタレ」と評する事になるのだが、キューブリックもキューブリックで、「この程度の仕事なら、やっつけの片手間でもやってみせる」と言わんばかりに、仕事をサボってスタッフと野球ばかりしていたという話もある。  この映画、 2時間半もの長編だが、『ベン・ハー』や、『クレオパトラ』が流行していた当時らしいスペクタクル感覚に溢れ、現在では完全に古びてしまっている。それを割り引いてもたいして良い作品とは思えず、こんな映画がアカデミー賞を受賞してしまうのだから、「さすがアメリカ」と皮肉のひとつも言いたくなってしまう。  若干30歳のキューブリックにとっては、初の大作カラー作品なので、ここでの経験は後の傑作を産み出すのに、大いに役に立ったと想像できる。もっと重要なのは、この大作を興行的な成功に導いた事によって、ハリウッドからの更なる信頼を得、「有望な新人監督」から、「偉大なフイルムメーカー」としての礎を築き、資金をハリウッドに依存しつつも、自由に映画を創れる環境を手に入れた、ということではないだろうか。

【関連作品】『スティーブン・キング シャイニング』(原題:Stephen King's The Shining)

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 The Shining (TV Mini Series 1997)(IMDb)  「豪華な高級車だがエンジンはついていない」とか、「頭でっかちで、感受性に乏しい」など、キューブリック版に不満たらたらだったキングが、映画から17年後にTVシリーズとして 自ら製作・脚本を手がけ、リメイクした正真正銘の『シャイニング』。  さすがに原作者が製作に深く関わっているために、ほぼ原作に忠実に映像化され、さぞかしキングも溜飲を下げたことだろう。また、先行していた映画版を微妙に避けるため、ホラーとして恐怖感を煽るより、悪霊VS家族愛という視点を強調して脚色した点も功を奏している。キング自身認めているが、映画版の「映像による閉塞的な恐怖感」は素晴らしく、それを超えることは容易でない。そのせいか、映画版とは打って変わり、魅力的な登場人物(幽霊も含む)により、ホラーというより、人間味の溢れる、心温まる感動物語として堪能することができる。  これはこれでありだと思うし、映画版と別物として考えれば、全く違和感なく楽しむことができる。とはいえ、キューブリックファンの性として、どうしても映画版との描写の違いに目が行ってしまう。映画版とTV版で共通する描写として、217号室の女性の霊や、バーテンダーとジャックの絡み、仮面舞踏会などのシークエンスなどが挙げられるが、これはどう見ても映画版に軍配が上がる。それに、キューブリックが拒否した様々な恐怖の描写の映像化(動く生け垣、消火器のホース、スズメバチの巣、ポスターガイスト現象など)に至っては、陳腐以外の何物でもない。  小説家という職業柄なのか、映像に関しては「自分の頭の中に描いている画」に固執しすぎるのだろう。実は、このTV版『シャイニング』を観ながら思い出していたのは映画版『シャイニング』ではなく、なんと『2010年』だった。丁度『2001年…』と『2010年』の肌合いが、そのままこの映画版とTV版にスライドしたとように思えてならなかったからだ。(映画『2010年』は、原作者自身の手による映画『2001年…』のリメイク、と言えなくもない)自らのビジョンにこだわる小説家と、そのビジョンをことごとく破壊し、再構築して傑作を創り上げてしまうキューブリック。キューブリックが小説家に嫌われる理由も良く分かろうというものだ。  尚、ラストは原作とも映...

【作品論】『バリー・リンドン』(原題:Barry Lyndon)

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Barry Lyndon(IMDb)   公開当時の批評によると「退屈だ」、「人間描写に乏しい」など評判が悪く、そのせいか興業成績もよくなかった作品だが、今日見返してみると、キューブリック作品の中では格段に見やすく、ドラマティックで重厚なストーリーになっている。長編の小説をまとめたため、全体にかけ足でエピソードをたどっているのが変えって心地よいテンポを産んでいて、3時間の長さを全く感じさせない。内容も決して難解ではなく、キューブリックもアメリカから渡ってきてた際に直面しただろう、イギリスの階級社会に対する皮肉もかなりあからさまだ。  キューブリックは本作の前にナポレオンの生涯を映画化しようとしたが、様々な事情により中止に追い込まれている。『ナポレオン』で目指した「絵画のように振り付けられた戦争」や「18世紀の人々の日常を切り取る」という目的は、スケールダウンしながらも、ある程度本作品で達成されたように思う。だが、それだけでなく、美しい衣装や調度品に囲まれながら暮らす醜悪な人間達の物語は、充分キューブリック的で、決して「スモールサイズ・ナポレオン」ではない。同じ歴史大作物として、『スパルタカス』と比較してみると面白いかも知れない。いかに『スパルタカス』が、キューブリックの意に沿わないものであったかが、良く分かる気がするからだ。  キューブリックは映像に自然な美しさを得るため、NASAが人工衛星用に開発したF値0.7というレンズをミッチェル・カメラにくっつけて、一切の人工光を排除し蝋燭の光だけで室内を撮影したのを始め、庭園のシーンや池遊びのシーンなどは、まるで絵画を見ているかのような錯覚に陥るほど、緻密に計算され、洗練された映像に圧倒される。現在のDVDと大画面TVの時代はこの作品には追い風となった。是非この圧倒的な映像美を思う存分堪能して頂きたい。  決闘によって幕を開け、決闘によって幕を閉じるバリーの物語は、結局400ギニーの年金と引き換えに片足を失っただけの、とても空虚なものだった…。キューブリックはこの物語を、所謂「悪党冒険譚」としてバリーを一元的な悪党に描くことはしないで、「身分や階級を問わず、全ての人間は適当に善人で、適当に悪人である」という醒めた視点で、淡々と物語を綴っていくという方法を採用した。それが劇的な興奮をを求める評論家や観客達を失望させる...

【作品論】『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(原題:Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)

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Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb(IMDb)   笑いの感覚というものは、時代とともに刻々と変化するものだ。昔笑えたギャグに今は全く笑えない、なんてことは日常的に実感する。だが、批判精神に溢れ、鋭く真実を付く「ブラックユーモア」はいくら月日が流れようとも普遍性がある。 いつの時代でもどの場所でも受け入れられるものなのだ。  本作品には「ブラックユーモア」な部分と「コメディ」な部分とが共存している。そして残念ながら「コメディ」の部分は今観るとかなり辛い。マフリー大統領とソ連書記長のホットラインでの会話や、コング少佐が機内で飛ばすジョーク、電話をかける小銭がないと焦るマンドレイク大佐や、撃ち抜かれ、コーラを吹き出す自動販売機などは正直全く笑えない。  だが、タカ派丸出しのタージトソン将軍や、共産主義者の陰謀を真顔で語るリッパー将軍、ナチの亡霊のようなストレンジラブ博士などは、ニヤッと笑った後に背筋が寒くなる。特に全世界が滅亡しようかという事態にまで至っても尚、自国の優位性を説くソ連大使には空恐ろしさを感じずにはいられない。  こういった、ブラックユーモアのセンスは傑出しているのだが、よほど現場のノリがよかったのか、全体的に悪ノリしすぎてしまっている感は否めない。当のキューブリックも暴走気味で、ラストシーンは「滅びた惑星地球から発見されたドキュメンタリー・フィルムを、宇宙人が発見し上映した」というオチにしようと考えていたらしい。そして、そのラストシーン直前に繰り広げられるはずだった最高作戦室でのパイ投げシーンは、撮影まで行われた。だが、さすがにやりすぎだと思ったのか、最終的にはまるまるカットしている。こういったものまで良しとするセンスが現場に満ちていたのだろう。やはり「ブラックユーモア」と「コメディ」の明解な線引きと、それがこの作品の将来をどう左右するかまでは、検討されていなかったのではないかと思う。  また、キャスティングの功罪もあったのかも知れない。特に三役(当初の予定ではコング少佐も含めて四役)で出演したピーター・セラーズは「ブラックユーモア」、「コメディ」両方のセンスを持っていて、その両方に影響力を及ぼしている。ブラックな部分はさすがイギリス人らしく鋭い...