投稿

ラベル(原作小説)が付いた投稿を表示しています

【原作小説】Amazon Kindleにサッカレーの小説『バリー・リンドン』が新訳で登場。しかも398円の超破格値!

イメージ
バリー・リンドン: アイルランド落ちぶれ貴族の波乱万丈の生涯 (Amazon)  状態にもよりますが、当時460円の角川文庫版・深町眞理子訳の小説『バリー・リンドン』が4000円程度からとプレミア化している現在、なんとAmazon Kindleに19世紀堂書店より『バリー・リンドン: アイルランド落ちぶれ貴族の波乱万丈の生涯』として登場しています。しかも読み放題のkindle unlimited加入なら無料、購入でも398円と破格の安さ!  では、その新訳のデキはどうなのかというと、比較は以下の通り。 第1章 我が家系と家族優しき情熱の影響を受ける 情熱  アダムの時代以来、この世で起こった災厄のほとんどには、 必ずと言っていいほど女性が関わっている。 我 がバリー家が家系として存在し始めた時(それはアダムの時代にほぼ近いほど古く、 誰もが知るように高貴で由緒ある家柄である)から、 女性たちは我が一族の運命に多大な影響を与えてきた。  ヨーロッパ中で、 アイルランド王国のバリー・オブ・バリューグ家の名を知らぬ紳士はいないだろう。 グウィリムやドジエの記録にもこれほど有名な家名は見当たらない。 世慣れた者として、私は靴磨きの下僕同然の系図しか持たない成り上がり者たちの高貴な血統主張を心底軽蔑し、 アイルランドの王族の末裔だと吹聴する同胞たちの自慢話を嘲笑するが、 真実を述べるなら、 我が家系はこの島で最も高貴であり、おそらく全世界でもそうであった。 戦争、裏切り、 時の流れ、 祖先の浪費、 古い信仰と君主への忠誠によって、今は 取るに足らないほど縮小した我が家の所領も、かつては驚くほど広大で、アイルランドが現在よりはるかに繁栄していた時代には多くの州を包含していた。 私は紋章にアイルランド王冠を掲げたいところだが、それを称し陳腐化させている愚かな詐称者があまりにも多い。  女性の過ちがなければ、 今頃私はその王冠を戴いていたかもしれない。 あなたは疑いの目を向けるだろう。 なぜ不可能だと言える?もしリチャード2世に膝を屈した腰抜けどもではなく、勇敢な指導者が我が同胞を率いていたなら、 彼らは自由の身となっていたかもしれない。 残忍なならず者オリバー・クロムウェルに対抗する決然たる指導者がいたなら、 我々は永遠にイギリスの軛を振り払えたはずだ。 しかし僭称者に対抗するバ...

【関連記事】「シャイニング」の舞台のホテルがホラーの聖地に!ブラムハウスが展示スペースを担当

イメージ
スタンリー・ホテル  「パラノーマル・アクティビティ」シリーズや「パージ」シリーズ、「ゲット・アウト」「M3GAN ミーガン」など、数々のホラー映画やスリラー映画を世に送り出してきたブラムハウスが、スティーブン・キングの小説「シャイニング」の舞台であるオーバールック・ホテルのモデルとなった米コロラド州エステスパークのザ・スタンレー・ホテルに新設される展示スペースのキュレーションを手がけることがわかった。 〈以下略〉 (引用: 映画.com/2024年1月30日 )  ザ・スタンレー・ホテル(スタンリー・ホテルとも)は小説版・TVドラマ版の舞台になったホテルで、キューブリックの映画版とは異なり真逆の瀟洒な白いホテルです。そのスタンリー・ホテルにホラー映画の展示スペースが新設されることになったそう。  スタンリー・ホテルには生垣迷路があるのですが、それはキューブリックの映画版からの引用です。おそらく宿泊客から「あれ?迷路はないの?」と言われて作ったものだと思いますが、映画版の舞台になったティンバーライン・ロッジには生垣迷路はありません。まあ、あちらは世界的に有名なスキーリゾート&ホテルなので、特にそういった「工夫」をしなくても良いのでしょう。  一方のスタンリー・ホテルはというと、あれこれと集客に工夫を凝らしています。記事の展示スペースもその一環なのでしょうけど、 この動画 (個人のvlogなので注意)を観ると、キューブリックの『シャイニング』に思いっきり便乗してます(汗。商魂たくましいと言いましょうか、このホテルは映画版とは直接関係ないのに・・・何だかな、という感じです。

【考察・検証】原作小説『バリー・リンドンの幸運(The Luck of Barry Lyndon)』のあらすじと映画版の違いを検証する

イメージ
絶版になっている角川文庫のサッカレーの小説『バリー・リンドン』(Amason) ●小説『バリー・リンドンの幸運』のあらすじ  (自称)上流だが没落貴族の家系に生まれたレドモンド・バリーは気性が荒く、喧嘩っ早い性格だった。父親が病死するとますます生活に困窮するようになったが、プライドだけは高かった。15歳のバリーは年上の従姉ノーラに激しい恋心を抱くが、ノーラは子供扱いして相手にしない。そのノーラに求婚してきたのはイギリス軍の将校ジョン・クィン大尉だった。ノーラ家の借金の返済を申し出たクィン大尉にバリーは激しい嫉妬心を燃やし、決闘しろと迫る。その結果はクィン大尉の死亡だった。事が表面化する前にバリーは母親の金を手にダブリンへ逃れるが、そのダブリンで詐欺師夫婦にまんまと所持金全額を詐取される。無一文になったバリーは日銭を求めて仕方なくイギリス軍に入隊、大陸に渡る船に乗る。そこで巨漢のトゥールと喧嘩になり、同じ船内で決闘の立会人をしていたフェイガン大尉と再会する。フェイガンからクィン大尉の死はバリーを村から追い出すための狂言だと聞かされ、バリーは激怒しつつも犯罪者にならなかったことに安堵した。  大陸に渡ったバリーはミンデンの戦いに参加するが、軍隊の中で後見人となってくれていたフェイガン大尉が戦死する。バリーは軍隊のみすぼらしくて野獣のような生活に嫌気が差し、重傷を負ったフェイケナム中尉が担ぎ込まれた農家で、傷により気の触れた中尉と入れ替わることを企てる。その策略に農家の娘リシェンが協力した。フェイケナムの身分証明書を手に偽の中尉となったバリーだが、プロセイン軍の大尉にあっという間に見破られ、乱闘の末取り押さえられてしまう。囚われの身となったバリーはプロセイン軍の捨て駒の兵士としていくつか戦いに参加させられる。そこでもなんとか生き残り軍功も挙げた。戦争が終わると所属の連隊はベルリンに駐屯する。バリーは隊長であるポツドルフ大尉に取り入り部下になり、同じアイルランド人であるシュヴァリエ・ド・バリバリを監視するように依頼される。バリバリは行方不明だった伯父であることに気づいたバリーは伯父と結託し、伯父は甥を密航させる手配をしてベルリンから逃げ出す。二人はドレスデンで合流、賭博師としてピッピ伯爵と共謀し大金をせしめるが、ピッピに売上金を持ち逃げされる。二人は今度はマニ伯爵に狙いを定...

【考察・検証】アルトゥル・シュニッツラーの原作小説『夢小説』と『アイズ ワイド シャット』を比較して、ラストシーンの意味を考察・検証する

イメージ
顔色一つ変えず「ファック」と言い放つアリス(ニコール・キッドマン)  ●小説『ドリーム・ノヴェル(夢小説)』版 場所:夫婦の寝室 ・・・遂に―彼は彼女の横に身を伸ばして―彼女の上に屈みこみ、今はそこにも朝が現れてくるように思われる大きな明るい眼をつけた彼女の動かない顔を見ながら、懐疑的ではあるが同時に希望に満ちた 口調で、「僕たちはどうすればいいだろうか。アルベルティーネ」と問いかけた。  彼女は微笑した。そして、ちょっとためらってから、「すべての冒険―現実の冒険も夢の冒険も無事に切り抜けたことを運命に感謝すること、だと思いますわ」と答えた。 「無事に切り抜けたと云うが、全く確かだと思うかい」と彼は尋ねた。 「確かだと思いますわ。一夜の現実は、いえ、人間の一生の現実でさえ、現実であると同時に また人間の心の奥底の真実を意味するということにはならないような気がしますもの。」 「そして、どんな夢も」と云いながら彼はかすかな溜息をついた。「完全にただの夢だけというようなものではないね。」  彼女は彼の頭を両手に挟んで、やさしく自分の胸に寝かせた。「これで、わたしたちはすっかり目が覚めましたわね」と彼女は云った―「このさき長く。」  永久に、と彼は云い添えようとしたが、彼がその言葉を云い終らないうちに、彼女は彼の唇に指を一本充てがって、ひとり言でも云うように、「さきのことは尋ねないこと」と囁いた。  そこで、彼らは二人とも黙って、どちらもすこしまどろみながら、夢は見ないで、近く寄り添って横になっていたが―やがて、毎朝の例で七時に寝室の戸がノックされる。街路から聞き慣れたざわめきが伝わってくる。窓掛の隙間から勝ち誇った陽の光がさしこんでくる。隣室から子供の明るい笑い声が聞こえ、新しい一日がはじまるのであった。 (出典:『アイズ ワイド シャット』角川文庫) ●映画『アイズ ワイド シャット』版 場所:おもちゃ屋 「アリス・・・僕たちどうする?」 「どうする?・・・」 「どうって分からない」 「多分・・・きっとわたしたち、感謝すべきなのよ」 「何とか無事にやり過ごすことができた・・・危険な冒険を・・・」 「それが事実であれ、たとえ夢であれよ」 「本当に、そう思うかい?」 「本当に?」 「わたし・・・わたしに分かるのはひと夜の事なんて、まして生涯のどんな事だって、真実かど...

【考察・検証】表題『時計じかけのオレンジ』は誤解が元?バージェスは映画を支持していた?小説版の最終章はオプション扱い?アンソニー・バージェス財団のサイトの記述を検証する

イメージ
アンソニー・バージェス財団の『時計じかけのオレンジ』のページは こちら   キューブリックが映画化した『時計じかけのオレンジ』について、原作者のアンソニー・バージェスが小説版の最終章を採用しなかったことについて批判していたことは知られていますが、逆に全く知られていない事実があります。それはバージェスはキューブリックの映画版を「当初は」支持していたという事実です。このことは以前こちらでも記事にしていますが、バージェス財団のサイトにも同様の記述があります。  バージェスは『リスナー』誌上で公開時に本作を熱烈に評価し、公開後もキューブリックと友好的な創作関係を築いた。キューブリックはバージェスにナポレオン・ボナパルトの生涯を描いた映画の計画について話し、バージェスはこのアイデアを小説『ナポレオン交響曲』(1974年)で使用していたが、完成することはなかった。近年では、キューブリックのナポレオンの脚本をHBOのミニシリーズ化するという話が出ている。  なのに突然バージェスはキューブリックに反旗を翻し、批判を始めます。同サイトはこう続きます。  キューブリックとは友好的な関係を保っていたが、バージェスは『スタンリー・キューブリックの時計じかけのオレンジ』という脚本のイラスト版が出版されたことに憤慨していた。バージェスはこれを自分の作品の流用とみなし、『Library Journal』誌でこの本を酷評した。この間、彼は他の小説を無視したジャーナリストたちに不満を抱いていたが、引きこもりのキューブリックは自分の代わりにバージェスとマクダウェルに映画の弁護を依頼した。  キューブリックの脚本出版を自著の剽窃と考えたバージェスがキューブリックを批判する。これならキューブリックとバージェスの仲違いの原因として納得がいくものです。しかしこの記述だとキューブリック本人への批判であって、映画版への批判ではありません。  同様に、もう一つ重要な事実が知られていません。アレックスが暴力行為を辞めることを示唆する最終章は「削除された」のではなく、いったん最終章なしで完成していた小説に「付け加えられたもの」という事実です。同サイトには以下の記述があります。  バージェスのタイプ原稿を調べてみると、彼は常に小説の終わり方について迷っていたことがわかる。第三部第六章の最後に彼はこう書いている「オ...

【考察・検証】『シャイニング』の小説から映画版への改変部分を検証し、キューブリックとスティーブン・キングのストーリーメイクに対する考え方の違いを考察する

イメージ
テキストは1986年発刊、深町眞里子訳の文藝春秋版を使用 第一部 その日まで [1-1]雇用面接 小説:ジャックがアルマンの面接を受ける 映画:アルマンのキャラを改変し採用 [1-2]ボールダー 小説:自宅でジャックの面接の結果を待つウェンディとダニー 映画:エピソードをカットしつつも採用 [1-3]ワトスン 小説:ワトスンがホテルの地下室にあるボイラーなどの設備をジャックに説明 映画:カット [1-4]影の国 小説:ジャックが帰宅。ダニーがホテルに不気味な影を予感する 映画:トイレでのトニーとの会話シーンでその予感を少し触れるだけ [1-5]電話ボックス 小説:ジャックに管理人の仕事を斡旋した後見人のアルに電話 映画:アルに関する部分は全てカット [1-6]夜の断層 小説:ウェンディとジャックの過去と二人の間にある秘められた確執 映画:過去のトラウマや二人の間の確執は全てカット [1-7]別の寝室で 小説:ダニーがトニーの夢を見て、トニーがホテルについて警告する 映画:カット 第二部 ホテルへ [2-1]景観荘のながめ 小説:家族3人で車でホテルへ向かう 映画:エピソードをカットしつつも採用 [2-2]チェックアウト 小説:ホテル閉館の日の描写 映画:エピソードをカットしつつも採用 [2-3]ハローラン 小説:ハローランがキッチンを案内 映画:エピソードをカットしつつも採用 [2-4]かがやき 小説:ハローランがダニーに「シャイニング」の話をする 映画:エピソードをカットしつつも採用 [2-5]大巡遊旅行 小説:アルマンが一家を引き連れてホテルを説明、途中ダニーが消火器のホースの化け物を見る 映画:エピソードをカットしつつも採用、ダニーが見るのは双子の少女の幽霊に変更 [2-7]ポーチにて 小説:アルマンやハローランがホテルを去り、それを一家がポーチで見送る 映画:カット 第三部 すずめばちの巣 [3-1] 屋根の上で 小説:ジャックが屋根を修理中にすずめばちの巣を見つける 映画:蜂に関する部分は全てカット(カーペットの柄にその名残があるだけ) [3-2] 前庭で 小説:ジャックがすずめばちの巣をダニーに見せる 映画:カット [3-3] ダニー 小説:ダニーがトランス状態になり、蜂に刺される 映画:ダニーがトランス状態のみ採用、他はカット [3-4] 診察室 小説...

【関連記事】ペンギンブックス版『時計じかけのオレンジ』のカバーデザインを担当したデイビット・ペルハムのインタビュー

イメージ
左からバリー・トレンゴブ(ハイネマン[英]・1962年初版)、デイビット・ペルハム(ペンギンブックス[英]・1972年)、フィリップ・キャスル(バランタインブックス[米]・1971年)のアートワークがデザインされた小説版『時計じかけのオレンジ』のカバー。  バリー・トレンゴブは映画の公開よりも前に『時計じかけのオレンジ』のペンギン版(注:ハイネマンの間違い?)の素晴らしいカバーをデザインしました。ペンギンの営業部は小説のカバーと映画のグラフィックとタイアップをしたかったのですが、キューブリックはそれを望みませんでした。結果的に、私は映画のポスターのような印象を与えられるアートワークの仕事を依頼されたという訳です。残念なことに、その後他の有名なエアブラシ・アーティストによって失望させられることになりました(ここではその名前を伏せておくことにします)。その人物は最終的にもっと制作時間を要求し、遅れたあげくひどい出来のものを提出したからです。締め切りが真近に迫っていたので、したくはありませんでしたが、受け取るわけにもいきませんでした。  そういうわけで、日も暮れてから恐ろしいプレッシャーのもとで『時計じかけ…』のカバーデザインを作ることになりました。すでにほとんど時間がなく、一夜でトレーシングペーパーにアイデアを描き、朝4時に写植技術者に表紙カバー用のテキストを頼みました。5時にはバイク・メッセンジャーにタイプした編集者への指示書を手渡したのを覚えています。その後オフィスにて、このマットプラスチックのアセテート紙に黒の線画を描き、セパレーターに指定のカラーのオーバーレイをのせ、同時にカバーの複製を私の忠実な脳外科医のような技術を持つ(注:当時の広告制作はカッターナイフを使った切り貼り作業が中心だったので、その技術の高さを比喩したものだと思われる)アシスタントによって貼り付けました。まったく優秀なアシスタントたちでした。  それから、より多くのひしゃげたヘルメットをかぶったバイク・メッセンジャーがロンドンの街を行くのを見ました。そして私は自分の作品が有名になったのを知ったのです。当時としては何と早かったことか! 私が徹夜で急いで作ったものがコロンビアで宣伝用ポスターとして、トルコではTシャツ、ロスとニューヨークでは色々な用途にアイコンとして扱われるようになったのを見て驚嘆し...

【関連書籍】忘れ去られた『2001年宇宙の旅』のもうひとつの原典、アーサー・C・クラーク『地球への遠征』

イメージ
『地球への遠征』が収録された短編集『前哨』と、『2001年宇宙の旅』のアウトテイク集『失われた宇宙の旅2001』   『地球への遠征』は映画版・小説版『2001年宇宙の旅』の原典になった、アーサー・C・クラークが1953年に発表したの短編小説です。あらすじは銀河の中心から辺境の星、地球に飛来した異星人が、地球の原始的な文明に干渉し、去ってゆくまでの短い物語で、母星の危機に急遽帰らなくてはならなくなった異星人が「懐中電灯」や「ナイフ」などを未開人に残してゆき、これらで知恵をつけた未開人が進化(と読み取れる)、やがてその場所が「バビロン」になったというストーリー。  現在となってはなんとも「牧歌的」なお話かとは思いますが、キューブリックとクラークは異星人視点で描いたこの物語を、『2001年…』で猿人視点に翻案しました(もちろんクラーク自身の小説版も)。『2001年…』のアウトテイク集『失われた…』に紹介されている『はじめての出会い』『月を見るもの』『星からの贈り物』『地球よ、さらば』は、そのプロセスの中間に当たるストーリーで、物語自体は『2001年…』とほぼ同じ(彼らがスターゲートを通って地球へ訪れていたり、月に警報装置を埋めるシーンなどもある)ですが、猿人視点ではなく異星人視点で語られているのが特徴です。『2001年…』の原典になった小説といえば『前哨』や『幼年期の終わり』がよく語られますが、この『地球への遠征』もそれらと同じくらい知られていなければならない物語です。しかし、ファンの間でもあまり話題になることはないようです。  以前「『2001年宇宙の旅』の 「人類の夜明け(THE DAWN OF MAN)」パートの完全解説」 の記事でご紹介した通り、最終的にこのパートは「ナレーション・セリフは一切なし」という判断になりました。そのせいで「難解」「退屈」と言われてしまうリスクを承知の上でもキューブリックは「映像での説明」にこだわったのです。結局のところそれはこの『地球への遠征』を読めばわかる通り、言語や説明的シークエンスで表現してしまうととても陳腐なものになってしまう(キューブリックいわく「魔法に欠ける」)危険性を排除したかったのだと思います。そして、その判断が正しかったことは、『2001年…』の現在まで至る評価の高さが証明していると言えるでしょう。

【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』の最終章は、アンソニー・バージェスが出版社の意向に従って「付け加えた」ものであるという証言集

イメージ
邦訳された小説『時計じかけのオレンジ』。左から再販(1977年)、アントニイ・バージェス選集〈2〉(1980年)、完全版(2008年)。このほかに1971年発刊の初版がある。   小説『時計じかけのオレンジ』の最終章(第21章・3部7章)については、いったん第20章(3部6章)で物語を終わらせていたにもかかわらず、原作者アンソニー・バージェスが出版社の意向に沿って「その場しのぎ」で「付け加えた」というのが事の真相ですが、本人がこの事実を隠し、事あるたびにキューブリックの映画版を批判したために、「最終章がある版がバージェスの真意である」という間違った認識が定着しつつあります。この記事ではそれを訂正するために、当事者や関係者の証言をまとめてみたいと思います。  「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」 (引用元:『ミシェル・シマン キューブリック』)  「失われた最終章?あれは偽物だ。アンソニー・バージェスは文字通り書けと強要されたんだからね。発行者から「こいつを好ましい人物にしないとかなり厳しいことになる」と言われて2時間で言われた通りに書き上げたと話していたよ。だからあれはオリジナルでもなんでもないのさ」 (引用元:『CUT 2011年7月号』マルコム・マクダウェル インタビュー)  このように、キューブリックもマルコムも明確に「最終章は出版時に出版社の意向で付け加えさせられたもの」と証言しています。次に、小説の訳者である乾 信一郎氏による最終章に関するあとがきを検証したいと思います。  この小説が一部二部三部にわけられていることはごらんのとおりであるが、その第一部と第二部はそれぞれ七つの章から成り立っている。問題なのは第三部である。1962年の英国版初版にはこの第三部も七つの章になっているのだが、その後に出た版になるといずれも最終章の第七章が削除されている。最も新しい版と思われるペンギン・ブックスの1977年版にもこの最終第七章は無い。 〈中略〉  ところがその後早川書房編集部で1974年のPlayBoy誌上にバージェスのインタビュー記事が出ているのを発見。訳者もそれを見せてもらったが、その中にはもちろんバージェス...

【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』の訳者、乾 信一郎氏による最終章に関するあとがきを検証する

イメージ
左から最終章が掲載されていない旧版、最終章が収録されている選集版、完全版  1980年に出版された『アントニイ・バージェス選集〈2〉「時計じかけのオレンジ」』には最終章が翻訳され、掲載されているという話は前から知っていたのですが、現在ではその最終章が収録された完全版が一般に流通していますので、この選集版を紹介する意味はないと思っていました。ところが訳者である乾 信一郎氏のあとがきに興味深い記述を発見したので、それを元に例の「最終章問題」を検証してみたいと思います。以下がそのあとがきです。  この小説が一部二部三部にわけられていることはごらんのとおりであるが、その第一部と第二部はそれぞれ七つの章から成り立っている。問題なのは第三部である。一九六二年の英国版初版にはこの第三部も七つの章になっているのだが、その後に出た版になるといずれも最終章の第七章が削除されている。最も新しい版と思われるペンギン・ブックスの一九七七年版にもこの最終第七章は無い。  どういう事情からこの最後の章がはぶかれたのかは不明だが、その章があるのは初版だけであって、あとの版にはないとなると、当然作者側と出版社側との間に削除についての合意があったとしか考えられない。出版社が勝手に削除して出版するわけがない。以上のような解釈から訳者は一九七一年(昭和四十六年)に翻訳出版の際第三部の第七章がはぶかれているものをテキストとして翻訳し、その旨を断っておいた。また、一九七七年(昭和五十二年)初版発行のNV文庫版でも同様にしておいた。  ところがその後早川書房編集部で一九七四年のPlayBoy誌上にバージェスのインタビュー記事が出ているのを発見。訳者もそれを見せてもらったが、その中にはもちろんバージェスの著作中でのベストセラー『時計じかけのオレンジ』のことに触れた部分があった。それによるとバージェスはキューブリック監督によって映画化された『時計じかけのオレンジ』には数々の不満があるというのだ。特に結末の部分がいけないという。キューブリック監督は原作の最後の章を読んでいないんじゃないか、とあった。なぜかというと、最後の章では主人公の若いアレックスは成長し、暴力を時間の浪費だったと反省するようになり、結婚して子供をもうけ、●●●(引用先が伏せ字なのでそれに倣います)になろうと考えるようになる。ところが映画では暴力はま...

【考察・検証】『フルメタル・ジャケット』のベトナム・パートを原作と比較・検証し、キューブリックの真意を探る。

イメージ
  フルメタル・ジャケット (角川文庫)(Amazon)  まず、原作『フルメタル・ジャケット(ザ・ショートタイマーズ)』第2章の『殺害戦果』と、映画の後半のベトナム・パートのあらすじを整理したいと思う。 【原作小説】 (1)ダナンでラフターマンと映画館へ行き、そこでカウボーイと再会する。 (2)ラフターマンに「前線に行きたい」と相談される。(ベトナム人の売春婦が少しだけ登場) (3)宿舎に戻り休憩中、テト攻勢を受ける。 (4)リンチ少佐からピースバッチをとがめられる。そしてラフターマンと共にフバイ行きを命令される。 (5)フバイの広報部に着任、ジャニュアリー大尉から軍曹昇進の報を受けるがジョーカーはこれを固辞。 (6)宿舎で休息。ペイバックが「千里眼」の話をする。 (7)暇つぶしにネズミ退治を始める。退治したネズミを埋葬し『ミッキーマウス・マーチ』を全員で歌う。 (8)明け方にベトコンの奇襲を受け、ラフターマンは初めての実戦を経験する。 (9)ヘリでフエに移動。途中銃撃手が眼下の農夫を銃撃する。 (10)フエに到着。戦車に同乗させれもらい、司令部に向かうが途中でベトナム人の少女をひき殺してしまう。 (11)司令部に到着。翌日そこでCBSテレビの撮影チームを目撃。 (12)最前線に取材に向かうが、そこにはカウボーイの所属する部隊「ワン・ファイブ」がいる事を知る。 (13)カウボーイと再び再会。クレイジー・アールがベトコン兵の死体を紹介する。 (14)王城での作戦開始。ジョーカーとラフターマンも作戦に同行する。誰かがミッキーマウス・マーチを歌い始める。 (15)ロケット弾を受けジョーカーは気絶するが、意識を回復。しかしミスター・ショートラウンド、クレイジー・アールが戦死。 (16)ジョーカーは気絶している間に狙撃兵がひとりひとり嬲り殺しにした事実を知り、その狙撃兵を探す事にする。 (17)カウボーイが部隊を指揮し、狙撃兵を探す。ラフターマンが狙撃兵を仕留め、ジョーカーがとどめを刺す。そしてアニマル・マザーが首をはねる。(カウボーイは戦死しない) (18)部隊は休みを言い渡され、ジョーカーとラフターマンは虐殺現場の取材をする。 (19)ジョーカーとラフターマンは部隊を離れ、フバイへ向けて歩き出す。しかしラフターマンは戦車に轢かれ死亡する。 (20)ジョーカーはひ...

【原作小説】五十年間の嘘(Wartime Lies)

 ユダヤ人の美しい伯母と少年が、ナチスドイツのホロコーストから逃れるために第二次世界大戦下のポーランドを点々としながら出自を偽り、嘘に嘘を重ねながらも逞しく生き延びようとする話・・・こんなあらすじからどんな物語を想像するだろうか?多分ほとんどの人がそのあまりにも残酷なホロコーストという現実に負けずに生き延びた、ユダヤ人の美談を想像するのではないだろうか。残念ながらここにはそんな美談は全くと言っていい程ない。それどころかユダヤ人がいかに醜くヨーロッパ全土を寄生虫のごとく蝕み、貶めているばかりか、当のユダヤ人がユダヤ人こそ最も憎み、蔑むべき民族だと考えるその心根が淡々と綴られてさえいるのだ。  確かにナチスドイツや、それに協力したポーランド人が働いた無慈悲な残虐行為、それにソ連軍の蛮行も触れられてはいる。だが、自分と家族さえ生き延びればそれでいいと良心的なドイツ人やポーランド人を欺き続け、それにあまり痛痒を感じていない姿とか、強制連行や銃殺、ゲットーへの襲撃など、他のユダヤ人が迫害されている様を淡々と眺めていたり、あまつさえユダヤ人でありながらキリスト教の洗礼を受け、キリスト教の慣習を真似てキリスト教徒に偽装する事をニヒリスティックに受け入れているその姿は、他の民族(特に共同体意識と相互扶助、それに正直さこそ美徳だと信じきっている日本人)にとって非常に異質に映る。  それ故、読後に残るのはこの伯母と少年に全く同情の感情は湧かない、という事実だ。そして気づかされるのは、だからこそ二千年以上に渡って流浪の民でありながら生き永らえる事ができたのだという、そのしたたかさと逞しさ、そして狡猾さだ。ユダヤ人がユダヤ人たらしめているものがその「狡猾さ」だとするならば、それこそが他の民族の反感を買いやすく、故にユダヤ民族に厄災を招く原因になりかねないのだと、作者のルイス・ベグニーは自分が生きた1933年から第二次世界大戦終了時までを振り返ったこの小説で、客観的かつ冷静に、そして自虐と皮肉を込めて指摘している。  本書はドイツで三十万部を超す大ベストセラーとなり、全米でも高い評価を受けたそうだ。そこにユダヤ問題の根深さ、ドイツ人の本音、ひいては世界全体におけるユダヤ人に対する「印象」が透けて見えるような気がする。

【関連書籍】栄光の小径(Path of Glory)

 カナダ人作家、ハンフリー・コッブが1935年に書いた『突撃』の原作(映画原題も同じ)。第一次世界大戦の最中、フランス陸軍で起こった反乱罪によって死刑に処された5人の未亡人たちが、損害賠償を求めて提訴するが敗訴になったという記事をコッブが目にし、そこから着想を得てこの小説を書いた。  キューブリックはこの本を高校時代に既に読んでいて、 「この本は私が高校時代に楽しんで読んだ本の、数少ないもののひとつだった」「父の仕事場に置いてあったのを見つけ、父が患者の診療を終えるのを待っている間に読み始めた」(引用:キューブリック全書) と語っている。  タイトルの「栄光の小径」はイングランドの詩人、トマス・グレイの『故郷の墓地に書かれし哀歌』の一節「栄光の小径はただ墓へと続くのみ」から採られている。

【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』第21章の違和感の正体

イメージ
第21章が掲載されなかった初版(左)と掲載された再販(右)  この第21章、読んでいただければ分かるように、それまでのトーンと全く整合性がとれていない。ここに描かれている部分には、権力者も、反権力者も登場しない。あの収監と治療と自殺幇助と逆治療の日々がまったく「なかった」かのような扱いをされている。しかも他の章に比べて極端に短い。まるでやっつけ仕事のようにさえ感じてしまう。  もし、バージェスが本気で希望を持った終わり方にしたいと思ったのなら、アレックスがどうやって権力者や反権力者の思惑から抜け出し、自由と自立を勝ち取るか描くはずだ。小賢しいアレックスの事である。内務大臣の宣伝担当という役柄を最大限逆利用するとか、収容されている反体制グループを解放、煽動し権力者にぶつけるとか、なにか新しい仲間〈ドルーギー〉と共に行動を起こすに違いない。そうやって両者にたっぷりと仕返しをした後のこの21章なら充分納得できる。だが今の第21章では単なる権力の犬のままだ。その権力の犬のまま嫁を捜して結婚し、大人になって暴力から卒業する・・・もしかしてこれがバージェス流のブラックな結末のつもりなのだろうか?権力者が個人の尊厳を踏みにじってまで強要したルドヴィコ療法は間違ってました。市内に警察官を多く配置したら治安は良くなりました。それに若者は大人になればいずれ暴力はやめるのだから、自然に任せておくのが一番いい。そんな結末を読者に信じろと?  冗談ではない。暴力は生きる力だ。暴力性こそ人間性だ。暴力性を否定する事は人間性を否定する事だ。暴力性は老若男女誰もが持ち合わせている。権力も暴力だ。反権力も暴力だ。暴力を止めるのも暴力だ。宗教も言論も暴力だ。世界は暴力で溢れている。それが現実だ。それから目を背けるな。第20章までバージェスはそう描いていたではないか。それが何故突然第21章で「大人になったから暴力から卒業」で終わってしまうのだ?  キューブリックはこの件に関して  「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」(引用:『ミシェル・シマン キューブリック』) と1972年のインタビューで語っている。この時、出版社の編集担当者がどう説き伏せたのかは分からな...

【企画作品】ブルー・ムービー(Blue Movie)

 『博士の異常な愛情』で脚本を担当したテリー・サザーンが、キューブリックの家でハードコア・ポルノを上映したことをヒントに、「キューブリックとおぼしき天才監督が、ハリウッドの人気スターを出演させた一大ポルノムービーを作ろうとする」という脚本を書いた。しかし、内容を知ったキューブリックの妻、クリスティアーヌの猛反対により中止された。  その後サザーンは1970年にこの構想を小説として出版し、1974年、ワーナー・ブラザーズ製作、マイク・ニコルズ</a>監督、ェリー・アンドリュースの主演で検討されたが実現には至らなかった。また、デヴィッド・リーンも検討したが実現しなかった。  遺作『アイズ ワイド シャット』はポルノ映画を撮る、という目的は一部達成されたと言えるかもしれない。いかに検閲に引っかからないように性行為を映像化するかについて、この当時から検討していた筈なので、それは無駄にはならなかったようだ。

【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』第21章に漂う違和感とバージェスの真意

イメージ
第21章が掲載されなかった初版(左)と掲載された再販(右)  『時計じかけのオレンジ』の原作小説は、映画と違ってアレックスの更正を示唆して終わっている。この経緯について時系列でまとめ、問題の「第21章」について推察してみたい。  まず重要なのはバージェスがこの小説を書き上げた当初は映画版のとおりアレックスが暴力性を取り戻した段階、つまり第20章(3部第6章)で終わっていたという事実だ。だがイギリスのハイネマン出版社のバージェス担当者の要請により第21章(3部第7章)が「付け加え」られた。その内容は「正常に戻ったアレックスが新しい仲間と街に戻ってくるが、昔みたいな破壊衝動はすでになく、代わりに身を落ち着けて家庭を作る相手を捜す」という内容だった。これで完成を見た全21章版小説『時計じかけのオレンジ』は1962年にイギリスで出版されたのだが、その後アメリカで出版された『時計…』にはその21章が「抜け落ちて」いた。(削られたわけではない)つまり、イギリスから送られてきた当初の20章版『時計…』をそのまま印刷してしまったのだ。  キューブリックはこのアメリカ版を読み1969年末に映画化を決定する。キューブリックも最初から意図的に21章を省いた訳ではないのだ。キューブリックは脚本化していた4ヶ月もの間、その存在に気づかず、1970年5月15日にそのままの形で脚本は完成した。その後第21章に気づいたキューブリックは「本の他の部分と全く調子が合わない」と採用せず、当初の脚本通りに製作を続け1971年始めには映画はほぼ完成した。その頃バージェスと妻は映画の試写に立ち会っているが、その余りにも酷い暴力描写に不快感を催し、退席しようとした妻を「キューブリックに失礼だから」と見続けるように促す一幕もあった。それから少し時間を空けて興行成績アップが狙える1971年のクリスマスシーズン(この映画をカップルで!?)に公開が決定された。  問題はここからである。この映画の内容を模した(もしくは模したとマスコミに言いがかりをつけられた)暴力事件がマスコミを賑わし始めた。当初バージェスは「映画も文学も、原罪に対して責任を持たない。叔父を殺した人がいても、それをハムレット劇のせいにすることはできない」と擁護していた。だが事態は深刻さを増し、様々な圧力団体がキューブリックやバージェスを非難し始め、やがて...

【関連記事】中川翔子さん(マルチタレント)と読む『2001年宇宙の旅』

 ヲタクアイドルとして有名な中川翔子さんの『2001年宇宙の旅』(小説版)のインタビューがありましたのでご紹介します。  『2001年宇宙の旅』は先に映画を見ていました。ナレーションもなく、謎めいている。もっと深く知りたくて本を読んでみたら、宇宙船の目的地が、映画では木星なのに、土星なんですね。サルたちの生態、モノリスを月に埋め込んだ者の描かれ方、コンピューター「HAL」との心理戦……映画とは違う感じで、戦慄(せんりつ)を覚える瞬間がいくつもありました。 (引用: ブック・アサヒ・コム/2012年04月22日 )  常日頃からオタクを公言していた彼女が、日本のマンガやアニメに引用されまくっている『2001年…』とこの小説に触れていた事には驚きませんし、感想もまあ当たり前のものかな、と思いますが、これを読む限り彼女はちゃんと『2001年…』の本質に思いを馳せるまで到達しているようです。でないと「思い出す本 忘れない本」というテーマを与えられて『2001年…』を選ぶなんてことまずないですからね。  「小説を読まないと理解できない映画なんて欠陥云々」という評もよく見かけますが、映画→小説→映画という順番で鑑賞すると、映画は映像でちゃんと「説明」してるんですよね。例えば猿人が一瞬モノリスをフラッシュバックするとか、月のモノリスがちゃんと陽を浴びてるとか。だから当時は「なんで気づかなかったんだ!」と自分の未熟さ加減に地団駄を踏んだものですが、最近の視聴者には荷が重いようです。でも彼らは悪くないでしょう。目先の利益ばかり追い続け、低レベルの映画や音楽を垂れ流し続けた大人が悪いのです。反省しましょう。

【関連書籍】時計じかけのオレンジ/アンソニー・バージェス 著

 キューブリックの『時計…』があれだけの傑作になったのは、もちろんキューブリックのセンスによるところも大きいのだが、この原作小説が傑作であった事に拠るのは疑うべくもない。  原作のアレックスの残忍さは映画以上で、暴行、強盗、強姦、殺人と悪行の限りを尽くしている。その上裏切りや寝返り、ゴマすりが上手ときている。それに映画以上に頻出する「ナッドサット言葉」は、大人や社会とのコミュニケートを完全に拒否した今の若者の姿そのものだ。また、アレックスは恐ろしく頭が良く、温和な両親と暖かな家庭がある点も見逃せない。不遇な家庭環境が非行を呼び込む、という旧来の図式が完全に崩れ去るのを、60年代に予見していたのには驚くばかりだ。  キューブリックは『ナポレオン』の企画が中止された後、テリー・サザーンにもらったままになっていたこの小説を読み、たちまち魅了されたという。また「小説の答えはすべて小説の中にある。それを見いだせないとするならば、それは単なる怠慢だ」とまで言い切っている。そんなキューブリックに対し、この作品を「暴力賛美」とか「非行を助長する」と非難し、上映中止まで追い込んだ一部のマスコミや団体は、キューブリックにはさぞかし「怠慢」に思えてならなかっただろう。  この小説に魅せられたのはキューブリックだけではなく、かのローリング・ストーンズもミック・ジャガー主演で映画化を検討していたらしい。だが肝心のバージェスはこの小説を忌み嫌っていたようで「クズ本」とか「ムカムカする」とか言いたい放題。作中の小説家と同じように妻をレイブされた経験があり、自身も脳腫瘍と診断され、酒を浴びるように飲みながら書いた本を好きになれない気持ちも分からないでもないが、映画の公開時にはプロモーションで各地を飛び回っていた事実を考えると、正直疑問が残る。ちょっと穿った見方かも知れないが、この映画に対するあまりにも激しい批判と脅迫に恐れをなし、否定的な立場をとるようになったのではないだろうか。(もしそうだとしてもバージェスを批判する気はさらさら無いが)  尚、日本版の旧版では最後の一章が掲載されていないが、それは当時のアメリカ版に倣ったようだ。この『完全版』でやっと全訳となったが、これは当時のバージェスの意思(たとえ担当編集者の圧力に屈したのだとしても)にを反映したものであるので、この件については全く異論はない...

【関連記事】米誌が選ぶ原作小説に劣る映画化作品26本

 映画化不可能といわれたデビッド・ミッチェルの小説「クラウド・アトラス(原題)」が、ウォシャウスキー兄弟とトム・ティクバの共同監督によって映画化されたことを記念し、エンターテインメント・ウィークリー誌は小説から映画化された作品のリストを発表した。  テーマは「原作小説に劣る映画化作品」で、ロバート・レッドフォード主演の「華麗なるギャッツビー」から、ダン・ブラウンのベストセラー小説の映画化「ダ・ヴィンチ・コード」まで26作品がリストアップされている。 「華麗なるギャツビー(1974)」 原作:F・スコット・フィッツジェラルド 「砂の惑星」(1984) 原作:フランク・ハーバート 「コットンクラブ」(1984) 原作:ジム・ハスキンス 「バトルランナー」(1987) 原作:リチャード・バックマン(スティーブン・キング) 「虚栄のかがり火」(1990) 原作:トム・ウルフ 「スカーレット・レター」(1995) 原作:ナサニエル・ホーソン 「真夜中のサバナ」(1997) 原作:ジョン・ベレント 「スフィア」(1998) 原作:マイケル・クライトン 「サイモン・バーチ」(1998) 原作:ジョン・アービング 「アンドリューNDR114」(1999) 原作:アイザック・アシモフ 「アイズ・ワイド・シャット」(1999) 原作:アルトゥール・シュニッツラー 「ヤング・ブラッド」(2001) 原作アレクサンドル・デュマ 「私は『うつ依存症』の女」(2001) 原作:エリザベス・ワーツェル 「PLANET OF THE APES 猿の惑星」(2001) 原作:ピエール・プール 「ルールズ・オブ・アトラクション」(2002) 原作:ブレッド・イーストン・エリス 「ハットしてキャット」(2003)、「グリンチ」(2000) 原作:Dr.スース 「白いカラス」(2003) 原作:フィリップ・ロス 「悪女」(2004) 原作:ウィリアム・メイクピース・サッカレー 「ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月」(2004) 原作:ヘレン・フィールディング 「トロイ」(2004) 原作:ホメロス 「サウンド・オブ・サンダー」(2004) 原作:レイ・ブラッドベリ 「SAYURI」(2005) 原作:アーサー・ゴールデン 「2番目のキス」(2005) 原作:ニック・ホーンビィ 「ダ・...

【関連書籍】破滅への二時間(Two Hours to Doom)

 ピーター・ブライアント(本名ピーター・ジョージ)作の『博士の…』の原作。1964年出版とかなり古い本ですがアマゾンにも古本として在庫があり、入手はかなり容易です。読んでみて感じたのはキューブリックはほとんど忠実にこの原作に倣って映画化しているという点。変更点はブラック・コメディ化した点を除けば、作中の人名と結末の改変、ストレンジラブ博士というキャラクターの追加くらいになります。  冷戦時代をご存知の方には秘密主義の旧ソ連の不気味さと、それに伴う共産主義の過大評価と反共主義者の暴走はリアルに感じられるかと思います。現在で言えば北朝鮮を巨大にしたようなイメージでしょうか。こういった小説がフィクションで済まされなかった事実は、キューバ危機</a>を挙げるまでもなく、日本近海でも大韓航空機撃墜事件として記憶されています。刻一刻と差し迫る世界滅亡へのカウントダウンというストーリーに、人一倍核戦争の危機を「心配して爆弾を愛するように」なっていたキューブリックが惹かれるというのもよく理解できます。  現在では全面核戦争で人類全滅という可能性は低くなり、こういったプロットは時代遅れですが、フェイルセーフというシステムが、いざその危機が訪れてみれば逆に障害になるという視点は今でも十分に有効で、特に震災と原発事故を経験した日本人には身に染みて感じられる筈です。『博士…』はブラック・コメディとピーター・セラーズの怪演ぶりに目がいきがちですが、フェイルセーフという名の安全神話に頼り切る危険性を一度考え直してみるという意味では、『博士…』もこの原作もかなり有用ではないかと感じました。  しかし本当に真面目な小説です。作者のピーター・ジョージは元イギリス空軍中尉だったそうですから、B-52爆撃機のクルー達には思い入れがあったのでしょう。彼らの軍人としての献身的な働きと大量殺戮への葛藤、そして国への、ひいては家族や故郷に対する痛切な想いを、登場人物中で一番丁寧に描き込んでいます。そんな思い入れには一瞥もくれず、核爆弾に跨がらせてICBMサイロに叩き込んだキューブリックの黒さと言ったら・・・アレックスを演じたマルコム・マクドウェルが「炭のように黒い」と評したそのブラックさと好対照を成す原作小説だと言えるでしょう。