【ブログ記事】ポーリン・ケイルが『2001年宇宙の旅』を悪意満載で評したエッセイ『ゴミ、芸術、そして映画』

映画の芸術性が叫ばれているが、私たちが楽しんでいる映画のほとんどは芸術作品ではないということを忘れているかもしれない。 ポーリン・ケイル著 〈中略〉 VIII 『2001年宇宙の旅』は『欲望』の主人公が作ったかもしれない映画だ。巨大なSFセットや装置を作って、それをどう使うかを考えようともしないキューブリックが、本当にやりたい放題やっていると考えると楽しい。フェリーニもまた、「組み立ておもちゃ」を使った映画作りに夢中になっていたが、『8 1/2』のラストで公開された彼の大きな宇宙船のセットは解体されてしまった。キューブリックも本当に作りたい自分の映画を作ることはできなかったが、彼はそれに気づいていないようだ。「アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ」(※B級映画制作会社)の作品をとてもバカげているから好きだという人もいる。キューブリックがそういうバカバカしいことをやって、超SFバカのファンタジーのようなものをやって見せたんだと、『2001年…』を好きになる人もいるかもしれない。ある意味では、この作品は最大のアマチュア映画であり、アマチュア映画のお約束である、監督の小さな(巻き毛の)娘がパパにどんなプレゼントが欲しいかをねだるシーンまで登場している。 『007は二度死ぬ』のタイトル前のシークエンスで、宇宙にいる宇宙飛行士が出てくるが、これは『2001年…』よりもゆるくて自由なスタイルで、ちょっとした大胆さがあり、『2001年』よりも面白かったと思う。それは叙情的な宇宙での死を見つけた時のショックという予想外の要素があった。キューブリックはこのアイデアに夢中になっている。『博士の異常な愛情』の副題『私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は、風刺的なものだと思っていたが、キューブリックにとっては完全な風刺ではなかったようだ。『2001年…』は、人間以外の生命の高次化に向けた進化の道として、死の道具の発明を祝福している。キューブリックは文字通り、心配するのをやめて爆弾を愛することを学んだ。彼は地球外生命体ゲーム理論のハーマン・カーン博士のように、自分自身の尻に敷かれるようになったのだ。漠然としたこの映画の魅力は、ラリった観客をこの世から連れ出し、優れた神のような心に支配された、優美な宇宙の慰めのビジョンの世界へ連れて行き、そこで主...