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『2001年宇宙の旅』(1968)と『ブレードランナー』(1982) |
SF映画の歴史を語る上では欠かせない『2001年宇宙の旅』と『ブレードランナー』の両作品は、SF小説を原作にしているという点で共通している。前者はアーサー・C・クラークの、後者はフィリップ・K・ディックの小説を原作にしているが、ただ映像化したのではなく、映画ならではのビジョンを開拓することに成功している。SFにおける小説と映画の関係を探ってみた。
誤解されがちではあるものの、1968年の映画『2001年宇宙の旅』はクラークの小説版を基にスタンリー・キューブリックが映画化したわけではなく、またキューブリックの映画版を基にクラークが小説を書いたわけでもなく、キューブリックとクラークがアイデアを出し合った共作として世に出た。キューブリックは宇宙空間を映画化にするにあたってはさまざまな新しい撮影方法を考案し、そのSFX技術は当時としてはこれ以上ないほどのクオリティーだったといわれている。
だが、作品の出来うんぬんはともかくとして、映像面に限っていえば、『2001年宇宙の旅』が現在のハリウッドで製作されている作品群から一段も二段も落ちるのはいなめない。CGなどの映像技術が未発達だったという技術的な面での当時の映画の限界はいかんともし難く、とりわけSF小説の多くは宇宙や未来世界を舞台にしていたため、映像化不可能なものがたくさんあった。
そうした流れを変えたのは、1982年の『ブレードランナー』だった。『2001年宇宙の旅』の製作時よりもはるかに進歩した映像技術は、リドリー・スコットにこれまで観たことのない近未来世界像を提示することを可能にした。『ブレードランナー』は一例に過ぎないにしても、これまで映像化不可能だったものが映像化可能になったということは、SF小説と映画の関係にも大きな影響を与えることになる。
例えば、現在公開中の『エンダーのゲーム』は、これまでに何度も映画化が企画されながらもそのたびに頓挫したといういきさつがある。ついに映画化に至ったのは製作費やキャスティング、タイミングなどの要因もあるだろうが、CGをはじめとする映像技術の進歩が大きな要素を占めていることは想像に難くない。フルCG映画も作られるようになった今、映画は小説に書かれている全てを映像化することが可能になったといっても過言ではなく、その意味で『エンダーのゲーム』はそうした可能性の一端を見せてくれる作品になっているといえるだろう。(編集部・福田麗)
(引用:シネマトゥデイ/2014年1月19日)
非常に浅い論考ですね。シネマトゥデイ編集部はこの程度の人材で記事を作っているのでしょうか。ピアノ線丸見えでミニチュア感ありありのあの『ブレードランナー』の特撮が『2001年…』より「はるかに進歩した」と?
まず特撮の技術論の優劣と、世界感の映像化の優劣は分けて考えないといけないのにごっちゃに語っていますね。技術的に言えば『ブレラン』の方が時代が新しい分有利な筈ですが、精度や完成度は圧倒的に『2001年…』の方が上です。『ブレラン』のあのデカダンな未来観は斬新でしたので、もちろん評価はできますが、それは世界観の素晴らしさです。1980年代までの特撮は基本的には『2001年…』が用いた方法論と同じで、進歩したのはキューブリックが莫大な金と時間をかけていたものが、機械化が進んで費用も時間も効率的に製作できるようになっただけの事。ミニチュア撮影やアナログ合成頼みだったのは変わりなく、こういった基本的な認識がこの編集者には欠けているようです。
また、原作小説をそのまま映像化という例で『ブレラン』を取り上げるのは大きな間違いです。何故なら原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は『ブレラン』とストーリーも世界観もかなり違います。原作はあんなにアジア的な未来をしていませんし、デッカードのキャラクター(小説では妻がいる)もエンディングも全く違います。この編集者は後述の『エンダーのゲーム』に繋げたいばかりに、あたかも『アンドロイド…』をそのまま映像化したものが『ブレラン』になったかような記述になっていますが、それは完全に間違いです。
そんなアナログ特撮の世界に革命的な変革をもたらしたのが、CGを始めとする映像技術の進歩である事はこの記事の通りですが、「CGは原作小説の世界観をそのまま映像化する事を可能にした」というのはもうずいぶんと前から言われていることなので、ここで記事として改めて取り上げる程の事ではありません。現在ではあまりにも安っぽいCGの氾濫の反省からアナログ回帰の動きが見られる程で、現在公開され、高い評価を受けている『ゼロ・グラビティ』はそういった考えの元に製作されています。
作品の内容ではなく、カビの生えた「CGの登場は原作小説をそのまま映像化するのを可能にした」論を持ち出して『エンダーのゲーム』を持ち上げなければならないほど、この作品には「売り」がないんでしょうか?そう勘ぐりたくなる程記事のレベルが低すぎますね。