【考察・検証】『アイズ ワイド シャット』でトム・クルーズとニコール・キッドマンをキャスティングした理由
キューブリックは70年代初めの企画段階から夫婦の俳優をキャスティングする事を考えていたようで、アレックス・ボールドウィンとキム・ベイシンガー、スティーヴ・マーチンとヴィクトリア・テナントなどの候補が挙がっていた。結局トム・クルーズとニコール・キッドマンに決定するのだが、これは「夫婦共演」という話題性を狙ったというだけでなく、他にもっと大きな理由があるように思われる。
通常、夫婦の俳優を同じ映画で起用しても、夫婦役や恋人役にはキャスティングしないものだ。夫婦の俳優を夫婦役でキャスティングしてしまうと、観客にその俳優の私生活を覗き見るかのような錯覚を与える事になる。そうなると俳優がいくら役になりきっていても、観客はその俳優個人としてしか観れなくなるし、映画という虚構の世界に没入できなくなってしまう。これでは映画として成り立たない。
だが、キューブリックはあえてそこを狙った。ビル&アリスではなく、トム&ニコールとして観て欲しかったからだ。では何故そんな通常ありえないキャスティングをしたのか?
答えは全てラストシーンにある。下世話なイエロージャーナリズムで低俗な好奇心を満たして喜ぶ大衆が、トムとニコールのどんなプライベートが覗けるのかと期待して映画館に足を運んだ所に、2時間窮屈な座席に座らせた揚げ句あの一言を突き付け、「この映画に不快感を示す人間は、すなわちその存在自体が不快な人間に成れ果てている!」と断罪するキューブリック。ルック社時代に猿の檻の内側から客の痴呆的な姿を写すという、冷淡で皮肉に満ちた写真を撮っているキューブリックは、この頃から何ひとつ変わってはいなかった。いや、更に深化、先鋭化していたのだ。
本作をどう受け取るかそれは観客の自由だ。だが『博士…』や『時計…』の頃のキューブリックを評価しつつ、「あのキューブリックも老いてしまった」とか、「冷笑な監督が最期にして愛や性の喜びを肯定的に表現した」という評がはびこるのは一体どうした事だろう?「老いた」のは他でもない、こんな駄文しか書けない自分自身だというのに。
映画界をとりまく環境や、大衆の嗜好は時代によって大きく変化した。その変化は、大いにキューブリックを失望させたのかも知れない。だが、いつの時代もキューブリックはキューブリックだったのだ。彼の心臓が動きを止めるその瞬間まで。