【考察・検証】『スパルタカス』を巡るキューブリックとカーク・ダグラスの暗闘
生前「『スパルタカス』は私の作品ではない」と発言していたキューブリック。作品の製作に関する事全てを把握しコントロールするのが信条のキューブリックにとって、そうはならなかった本作品を除外したい気持ちは痛いほど分かる。実質的に現場を取り仕切っていたのがカーク・ダグラスとドルトン・トランボであり、事あるたびに衝突していたという事実を考えれば、キューブリックがいつ降板しても不思議ではない状態にあったはず。では何故そんな屈辱的な状況にも関わらずこの仕事を降りなかったのか。当時のキューブリックの置かれた状況からまずは考察してみたい。
キューブリックにとってハリウッド3作目に当たる本作は、『突撃』で獲得したハリウッド内での地位を確たるものにし、さらに一般レベルでの認知度を広めるには絶好のチャンスだったに違いない。何故なら当時流行の歴史スペクタルカラー大作であり、スターが軒並み出演する話題作でもあり、何よりもビックネーム、カーク・ダグラスが主演するのである。これはもうヒット確実で上手く行けばアカデミー賞さえ狙えると考えるのが当然である。キューブリックはこの作品に「監督」としてクレジットされれば、その後の作品制作の資金集めやマスコミの注目度など、メリットは計り知れないと考えたはず。そのためにはなんとしてでもこのプロジェクトをやり遂げなければならず、それによる数々の(キューブリックにとっての)不合理には耐える以外になかったのであろう。
その野心の一旦は、本作を監督しながら着々と次作『ロリータ』の準備をしていたことからも伺える。つまり『スパルタカス』の話題がまだホットな内に、あまり間を空けず矢継ぎ早に作品をリリースしたいというキューブリックの思惑が垣間見える。そんな野心丸出しのキューブリックを見てカークが好意的に思うはずはなく、両者の不仲は決定的なものになる。カークにとってキューブリックは「才能を見いだし、チャンスを与えてやった後輩監督」なのであり、「自分はキューブリックの恩人」という自負もあったはず。そんなカークを顧みず、自身の野望のためにひたすら邁進するキューブリックに理解を示す要素など皆無だ。
本作は世界中で大々的に興行され大ヒットし、アカデミー賞(助演男優賞・撮影賞・衣裳デザイン賞)を受賞する。自分のやり方は間違ってなかったとカークの自尊心はさぞかし満たされたであろう。この時点での勝者はカークであり、キューブリックは敗者だ。それもカークだけではなく、ハリウッドが持つ「優れた映画を作り出すシステム」に負けたのだ。それでもキューブリックは自分の信念を曲げなかった。優れた映画とは『スパルタカス』のような作品を言うのではない。自分がこれから生み出そうとしている作品こそ「優れた映画」なのだ、と。その為には自作を全てコントロールしなければならず、それはハリウッドでは不可能だ。キューブリックがハリウッドに背を向け、ロンドンに向う判断をするのにそんなに時間はかからなかったであろう事は想像に難くない。
それから半世紀が経ち、立場は完全に入れ替わった。『スパルタカス』は古臭く仰々しい過去の遺物でしかなく、カーク・ダグラスも完全に過去の人と成った。同時期の同傾向の作品『ベン・ハー』や『十戒』、『クレオパトラ』等も含め、当時を知る者のノスタルジー趣味や一部の映画ファンに顧みられる以外にニーズはない。(それはそれで尊重すべきで否定している訳ではない)それに対しキューブリックの諸作品は今現在も尚、新しいファンを獲得し続けている。時間という残酷な裁定に勝ったのはキューブリックだ。その「キューブリックが監督した」という冠を戴ける『スパルタカス』は他の同時期の作品より影響力や認知度、セールスの面で有利なのは間違いない。その意味においてカークはキューブリックに感謝すべきなのか?それとも過去の恩を考慮し引き分けとするのか?その判断はまだ存命である(寿命の点ではカークの勝ちだ)カークの心中に思いを馳せるだけにとどめておきたいと思う。