【考察・検証】『ロリータ』はロリコン映画か?
キューブリックの『ロリータ』はすこぶる評判が宜しくない。曰く「ロリータがロリじゃない」「ロリータむかつく」「全然エロくない」「おっさんの行動意味不明」「トタバタコメディが笑えない」などなどネット上の評判はさんざん。時代性を考えれば仕方ない部分があるにせよ、それら批判に対して有効な反論ができないのもまた事実。だってタイトルが『ロリータ』ですからね。それはもう萌えまくらせてくれるって思いますよね普通。
まあ、ロリコンの定義自体、この頃と現在じゃかけ離れているので、まずそこから話を始めないとどうしょうもない。で、その定義とは小説によると「偏愛とも言える屈折した恋愛感情で、その対象がローティーンに固執した形。幼少期に於ける思い入れの激しい恋愛とその喪失感が主な原因」として描かれています。簡単に言えば「少女偏愛」ですね。屈折してますがまあ広義には恋愛と言えるものです。ところが今では「幼児的従順さと稚拙な精神性を美化し、自分だけに性的興奮を向けるよう少女に要望するエゴイスティックな性向」に変化してしまってます。つまり「自分は何もしないけど、少女は自分だけに従順で純粋でいなきゃ駄目、性欲は自分だけに向いてなきゃ許さないよ」って事です。こうなるともう恋愛などというものではなく、単なる自己愛と現実逃避ですね。もちろんそんなロリコンではない作家が『ロリータ』という小説を書き、ロリコンでない監督が映画化しても、それはどうしたって「ロリコン映画」にはなりようがないって事です。
ハンバートは少女偏愛について確固たる定義と信念を持ってます。そのハンバートが見つけた最高の少女、それがロリータです。でもなかなか思う通りには事は進みません。だけどハンバートは嫌いになるどころか、困らせられれば困らせられるほどロリータにのめり込んでいきます。でもある日突然ロリータはいなくなります。この時のハンバートの喪失感はいかほどだったでしょう。次にロリータがハンバートの前に姿を現したのはもう少女でも女でもなく結婚して単なる妊婦になってました。つまり「産む肉塊」です。でもその時始めてハンバートは少女偏愛などという偏狭なものではなく、一人の女性として本当にロリータを愛していた事に気が付いたのです。
まっ、女性からすれば「勝手に天使だ妖精だって妄想膨らませておいて、いまさら愛してます、結婚してくださいって馬鹿じゃないの!?」って事なんですが、嫁さん三回も取り替えちゃったキューブリック監督、ひょっとして軽い妄想入った恋愛の男性心理なら実体験としてあったのかも。嫁さん(三番目の妻、クリスティアーヌ)にはベタ惚れだったそうだし。だとしたら「男ってのは哀れな生き物だよねぇ」って話しか作りようがないでしょう。だから『ロリータ』はそんな話になっちゃうんです。「変態紳士が真摯な愛に目覚めた時には時既に遅く、あとは自滅あるのみ」という皮肉に満ちた話。その偏愛の対象が少女だろうが、デブ専であろうが、マゾであろうが、ホモだろうが、フェチだろうが関係ないんです。キューブリックは「男の偏愛性向」を皮肉りたかっただけですから。そのためのあの薄ら寒いコメディ演出なんです。でもそれが成功しているとは思えないんで、以下のコメントになるんでしょう。
「ハンバートとロリータの間のエロティックな関係にまったく重点を置くことが(検閲などで)できなかった。彼がロリータに惹かれた本質のところが描けなかったために、映画ファンたちは彼が最初からロリータを(少女偏愛ではなく本当に)愛していたと思ってしまう」
「小説の方では、ロリータがニンフェットでなくなり、妊娠した人妻になった最後の場面でようやく分かる形になっている。その発見が、つまり彼女への愛に気づくことが、このストーリーのもっとも心打つところだ」
(引用:『イメージフォーラム増刊 キューブリック』より)※カッコ内筆者補足
結論:『ロリータ』はロリコンがテーマではなく、男の偏愛性向の愚かさを皮肉るお話。少女偏愛はそれを描くための題材(ネタ)に過ぎない。しかも描かれる少女偏愛も、現在のロリコンとは定義が大きく異なる。
上記の結論を踏まえて『ロリータ』を観ると・・・そこそこ楽しめるんです。男だったら誰もが一度は経験する好き過ぎた故の妄想と、それが勘違いと気付いた時の滑稽さ。それが極端な形で上手く戯画化されているな、と。でも他人には非常におすすめし辛いし、説明も難しいですが。