【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』第21章に漂う違和感とバージェスの真意
第21章が掲載されなかった初版(左)と掲載された再販(右) |
『時計じかけのオレンジ』の原作小説は、映画と違ってアレックスの更正を示唆して終わっている。この経緯について時系列でまとめ、問題の「第21章」について推察してみたい。
まず重要なのはバージェスがこの小説を書き上げた当初は映画版のとおりアレックスが暴力性を取り戻した段階、つまり第20章(3部第6章)で終わっていたという事実だ。だがイギリスのハイネマン出版社のバージェス担当者の要請により第21章(3部第7章)が「付け加え」られた。その内容は「正常に戻ったアレックスが新しい仲間と街に戻ってくるが、昔みたいな破壊衝動はすでになく、代わりに身を落ち着けて家庭を作る相手を捜す」という内容だった。これで完成を見た全21章版小説『時計じかけのオレンジ』は1962年にイギリスで出版されたのだが、その後アメリカで出版された『時計…』にはその21章が「抜け落ちて」いた。(削られたわけではない)つまり、イギリスから送られてきた当初の20章版『時計…』をそのまま印刷してしまったのだ。
キューブリックはこのアメリカ版を読み1969年末に映画化を決定する。キューブリックも最初から意図的に21章を省いた訳ではないのだ。キューブリックは脚本化していた4ヶ月もの間、その存在に気づかず、1970年5月15日にそのままの形で脚本は完成した。その後第21章に気づいたキューブリックは「本の他の部分と全く調子が合わない」と採用せず、当初の脚本通りに製作を続け1971年始めには映画はほぼ完成した。その頃バージェスと妻は映画の試写に立ち会っているが、その余りにも酷い暴力描写に不快感を催し、退席しようとした妻を「キューブリックに失礼だから」と見続けるように促す一幕もあった。それから少し時間を空けて興行成績アップが狙える1971年のクリスマスシーズン(この映画をカップルで!?)に公開が決定された。
問題はここからである。この映画の内容を模した(もしくは模したとマスコミに言いがかりをつけられた)暴力事件がマスコミを賑わし始めた。当初バージェスは「映画も文学も、原罪に対して責任を持たない。叔父を殺した人がいても、それをハムレット劇のせいにすることはできない」と擁護していた。だが事態は深刻さを増し、様々な圧力団体がキューブリックやバージェスを非難し始め、やがてそれはエスカレートしてゆき、ありとあらゆる脅迫がキューブリックの元に届くようになった。それは家族、当時まだ10代だった三人の娘にも向けられていた。キューブリックは事態を深く憂慮し(長女のカタリーナはこの映画にエキストラで出演している。この事実がもし当時知られてしまっていたら・・・キューブリックの危機感は痛いほど理解できる)1974年、イギリスでの配給の停止をワーナーに申し出た。それからキューブリックの死後、2000年3月に解禁されるまでイギリス国内での上映は禁止されていた。
以上の経緯から、以下の事実が読み取れる
(1)バージェスは当初20章で終わりにしようと考えていた事
(2)出版担当者のアドバイス(?)で「自主的に」21章を加えた事
(3)少なくとも製作中や試写の段階まではバージェスは表立ってキューブリックを非難していなかった事
(4)公開してしばらくは映画を擁護していた事
(5)キューブリックに対する圧力団体の脅迫がすさまじく、バージェスも非難に晒されていた事
これらの事実を踏まえ推察をしてみたい。あの21章に対するバージェスのこだわりぶりとキューブリックに対する非難の理由についてだ。バージェスは1960年には脳腫瘍で死ぬつもりだった。それから来る刹那的創作衝動と妻への遺産の確保、妻がレイプされた苦い記憶、そして自身もアルコールに溺れながらの執筆だった。だが脳腫瘍は誤診で結局彼は生き続けなければならなくなった。(実際1993年まで生き延びた)また、逆に生きる希望も湧いてきたに違いない。そんな中キューブリックに向けられた凄まじい非難と脅迫の数々。せっかく生き延びたバージェスにもすでに非難の声は届いていた。そしてもっと過激な非難や脅迫の矛先がいつ自分に向けられるのかと戦々恐々としたとしても不思議ではない。では、原作者であるバージェスがそれから逃れるにはどうすれば良いか?そう、キューブリックへの責任転嫁と救いのある21章がある事への言及、そして自著への批判である。
「自分は21章で健全な青少年の更正を示唆して終わらせた。それを悪夢のようなバッドエンドに改作したのはキューブリックだ!」「ちゃんと21章で希望を持って終わる物語だったのに、掲載しなかったアメリカの出版社は許せない!」「あのクズ本は最低の状態で書いたものだ。死さえ宣告されていたんだ。私の真意ではない!」「だから私に責任はない、批判はお門違いだ!」・・・バージェスの批判の裏にこんな卑しさがあったとしても何も不思議ではない。いやむしろ脅迫の凄まじさからすると自然な反応だろう。そんなバージェスを誰が責められる?当のキューブリックも『ロリータ』では自分で脚本を手直ししておきながらクレジットには名前を載せなかった。それは各方面からの批判を受けるのは原作者であるナボコフだけで十分だという計算があったからだと言われている。今回はそれが裏目に出てしまったのだ。現にキューブリックはバージェスの批判に対して何も反論していない。
後に刊行された『時計じかけのオレンジ【完全版】』を読まれた方なら、あの21章に漂う違和感はお分かりになるかと思う。それは削除されたのではなく付け加えられたものだからだ。もちろんそれはバージェスの意思で行われたことであり、21章で【完全】である事は疑い用がない。だがバージェスの「真意」はどうだったのだろうか?本当にあの内容の21章は「必須」だと考えていたのだろうか?それともどこか救いが欲しいという出版担当者の要求に「妥協」したものなのだろうか?
個人的にはバージェスは3部×7章の計21章で終わらせたかったのだと思う。でもあの内容には納得していなかったのではないだろうか。そんな感想を「21」という区切りの良い数字と、21章に漂う如何ともし難い違和感の間に感じ取ってしまうのである。
(参考文献:『ザ・コンプリート キューブリック全書』、『映画監督スタンリーキューブリック』)