【作品論】薔薇の葬列
1960年代の新宿のアングラシーンのドキュメント+当時無名のゲイボーイ、ピーターを主人公にしたオイディプス劇。この説明で全て言い表せてしまうほど内容が薄い映画が本作品だ。
この時代にありがち(あえてそう言わせていただく)なサイケデリックでエロでグロで意味不明で混濁しているこの世界観は当時の若者の流行で、特に目新しい物ではない。それは当時の新宿のありきたりな一風景でしかなかったのだ。現在ではその雰囲気の片鱗さえ味わうのは困難なため、今の視聴者には斬新で新鮮に映るかもしれない。
とにかく過激で奇抜な事をやらかせばやらかす程「飛んでる」ともてはやされた時代である。こういった実験映画(これも当時は最大級の賛辞だった)や前衛演劇はアングラと呼ばれて一定の指示を集めていたのだ。そこに明確なメッセージや哲学などありはしない。ただ難解であればあるほど良しとされていたのである。
今から考えれば幼稚な話で、反抗期を拗らせたモラトリアムの成れの果てでしかない。そういった批判を予見してか、ところどころ「ちゃちゃ」を入れたり、冗談めかしてごまかしたり、撮影の裏側を見せたりインタビューシーンを入れて「いや、単なるお遊びだから、フィクションだから」と逃げ道まで用意している小賢しさである。真面目に論評するのも馬鹿馬鹿しくなる低レベルな代物だ。
そんな調子だからどこかで借りて来たような表現ばかり目につく。この監督が当時すでに下火だったヌーベルバーグに影響を受けている事は明白で、それに当時最先端のトレンドだったサイケデリックの要素を加味したに過ぎない。実はこの手の「実験映画」は世界中(主にヨーロッパ)で腐るほど作られた。だがその殆どは時の流れの中で淘汰されてしまい、今では一部の名作を除き顧みられる事は殆どない。
この作品がその「一部の名作」になり得なかった事自体、その価値を証明している。キューブリックの『時計じかけのオレンジ』に影響を与えた、与えない以前の問題として「当時ゴマンとあったアングラ実験映画のひとつ」という認識は正しく持っておくべきだろう。