【考察・検証】小説『時計じかけのオレンジ』第21章の違和感の正体

 この第21章、読んでいただければ分かるように、それまでのトーンと全く整合性がとれていない。ここに描かれている部分には、権力者も、反権力者も登場しない。あの収監と治療と自殺幇助と逆治療の日々がまったく「なかった」かのような扱いをされている。しかも他の章に比べて極端に短い。まるでやっつけ仕事のようにさえ感じてしまう。

 もし、バージェスが本気で希望を持った終わり方にしたいと思ったのなら、アレックスがどうやって権力者や反権力者の思惑から抜け出し、自由と自立を勝ち取るか描くはずだ。小賢しいアレックスの事である。内務大臣の宣伝担当という役柄を最大限逆利用するとか、収容されている反体制グループを解放、煽動し権力者にぶつけるとか、なにか新しい仲間〈ドルーギー〉と共に行動を起こすに違いない。そうやって両者にたっぷりと仕返しをした後のこの21章なら充分納得できる。だが今の第21章では単なる権力の犬のままだ。その権力の犬のまま嫁を捜して結婚し、大人になって暴力から卒業する・・・もしかしてこれがバージェス流のブラックな結末のつもりなのだろうか?権力者が個人の尊厳を踏みにじってまで強要したルドヴィコ療法は間違ってました。市内に警察官を多く配置したら治安は良くなりました。それに若者は大人になればいずれ暴力はやめるのだから、自然に任せておくのが一番いい。そんな結末を読者に信じろと?

 冗談ではない。暴力は生きる力だ。暴力性こそ人間性だ。暴力性を否定する事は人間性を否定する事だ。暴力性は老若男女誰もが持ち合わせている。権力も暴力だ。反権力も暴力だ。暴力を止めるのも暴力だ。宗教も言論も暴力だ。世界は暴力で溢れている。それが現実だ。それから目を背けるな。第20章までバージェスはそう描いていたではないか。それが何故突然第21章で「大人になったから暴力から卒業」で終わってしまうのだ?

 キューブリックはこの件に関して

 「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」(引用:『ミシェル・シマン キューブリック』)

と1972年のインタビューで語っている。この時、出版社の編集担当者がどう説き伏せたのかは分からない。ただバージェスは60年代始めはまだ経済的に恵まれてはいなかっただろうことは推察できる。「本を売りたければハッピーエンドにした方がいい」そう言われたら従ってしまうだけの素地はあったかも知れない。また辛い経験を基に執筆したので、この作品に対してあまり思い入れもなかったのかも知れない。そんな投げやりな気持ちのままこの第21章が書かれたというのなら、充分に納得できるし理解もできる。

 それにアメリカでの【完全版】の出版時期(1986年)の遅さも気になる要因の一つだ。バージェスは自著を【完全】に取り戻すのになぜ20年以上もかけてしまったのだろうか。もしかしたら本心では【旧アメリカ版】こそが本来の『時計…』だと思っていたからではないだろうか。バージェスが頑にこの第21章にこだわり、それを削ったアメリカの出版社やキューブリックを批判していたのは周知の事実だ。だがそれは本当に本心からの言動だったのだろうか・・・それも本人が死去してしまった今となっては闇の中だ。

 以前、確証がないという理由もあって「違和感・微妙」という表現を用いた。ただ個人的な話をすれば今後も【完全版】を手にする事はないだろう。自分にとって『時計じかけのオレンジ』とは小説も映画も第20章で終わっているからだ。第21章まであるのが【完全版】だと理解した上でも、第20章では完結していないといくら指摘されても、バージェスがこの物語をいったん第20章で終わらせていたという事実がある限り、旧版の小説『時計じかけのオレンジ』をずっと大切に持っていようと思っている。

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