【考察・検証】『シャイニング』再評価の理由を探る
『シャイニング』の公開当時の評価は芳しいものではありませんでした。いくつかの論評を抜粋してみても
「ニコルソンの頭がおかしくなっていけばいくほど、彼はどんどん馬鹿に見えていく。シェリー・デュヴァルは原作の暖かくて感じの良い妻を、作り笑いばかりする半ば知恵遅れのヒステリーに変えてしまった」「仕事ばかりで遊ばないので、スタンリーも退屈な男になる。彼は三年以上もこの企画に閉じ込められていた。もし閉所恐怖症を表現した映画があるとすれば、この作品がそれである」「引きこもっていたことのツケが回った。観客と批評家をともども奴隷にしてしまうキューブリックの魔法は失敗してしまったようだ」
(引用:『キューブリック全書)
と、暗澹たるものでした。それがいつの間にか今ではホラー映画トップ10という企画をやれば、必ず上位に入るほど評価が高まっています。では、どうして評価が一変したのでしょうか。その理由は一体なんなのでしょうか?
当時、原作をそのまま映像化すればもっと良い結果がもたらされるはず、という空気が少なからずありました。それを察知してか原作者のスティーブン・キングは、「映画版『シャイニング』について今後あれこれ言わない」との約束と引き換えにキューブリックから映像化権を取得、ご贔屓の監督と組み、映画並みの予算をかけて1997年にTVシリーズ化しました。これでキングはもとより、原作ファンの溜飲は下がると期待されていたのです。
でも、そこにあったのは「確かに原作に忠実だが、たいして面白くも恐ろしくもない凡庸なホラーフィルム」でした。その時始めてこの原作に対してキューブリックが何を加え、何を捨て去ったのか、その意図が明確になったのです。このTV版を製作していてキングは気付いたはずです「恐怖描写ではキューブリックに敵わない」と。そこでキングは恐怖描写は最低限に留め、物語の主眼を家族愛に置きました。それは決して悪い判断ではありませんでした。しかし、事前にキングが「キューブリックはホラーの何たるかを分かっていない」と豪語していたレベルには遠く及ばず、恐怖描写を楽しみにしていた原作ファンの期待を裏切る結果となったのです。
その裏切られた形になった原作ファンは手のひらを返したようにキューブリックを賞賛し始めます。しかも「キングに映像センスはない」「小説だけを書いていれば良い」などと言い出す始末です。そういう意味ではキューブリックはキングに感謝すべきでしょう。自らの手で、自らの間違いを証明してみせたのですから。
そしてその後現れたDVD/BDというメディアがキューブリックにとって更なる追い風になりました。デジタル・高画質化されたその映像で、キューブリックがあの広大なホテルのセットで何を映しとったか、それをまざまざと見せつけられたのです。その評価は更に高まり、今日に至るまでありとあらゆるオマージュとリスペクトが捧げられ続けています。
現在『シャイニング』といえばあのジャック・ニコルソンの強烈な顔を思い出す人がほとんどです。そして小説は小説として全く別物として扱われています。残念な事に、あれだけキングがこだわって再映像化したTV版『シャイニング』は、キューブリック版との比較という意図以外に顧みられる事がありません。キングもキューブリックとの約束を守り、口をつぐんでしまいました。もし何か批判をしたとしても、現在の映画版の高評価や無きもにされている自身のTV版の事を考えれば、何を言ったところで説得力がない事はキング自身が一番よくわかっている筈ですから。
ただキングも黙ってばかりではいません。現在続編を執筆中である事が明らかになっています。おそらくあまりにもキューブリックのものになりすぎた『シャイニング』を取り戻したいのでしょう。小説家という職業の宿命なのでしょうか、過去に全く同じ事をした小説家がいます。そうアーサー・C・クラークです。クラークの『オデッセイシリーズ』がどうなったかはファンの方ならご存知のはず。今回の『シャイニングシリーズ』もどうやら同じ運命を辿りそうです。