【関連記事】『時計じかけのオレンジ』が25年以上、イギリスの映画館で観ることができなかった理由
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| A Clockwork Orange(IMDb) |
〈前略〉
2011年、監督の未亡人であるクリスティアーヌ・キューブリックが、カンヌ映画祭の40周年記念回顧展にマルコム・マクダウェルと一緒に出演したとき、キューブリックの家族は『時計じかけのオレンジ』によって殺害の脅迫を受けていたことを明らかにしました。 「不快な電話」と「恐ろしい手紙」があり、門の外に人がいました。
クリスティアーヌはまた、「ザ・コンプリート・キューブリック」という書籍から引用すれば、「スタンリーは反応に大いに侮辱を受け、傷ついた」と述べています。明らかに彼は自分の映画が誰かを限界に追いやったり、現実世界での暴力犯罪の触媒として機能したりする可能性があるという意見に憤慨していました。
キューブリックが自身の映画の上映中止を支持した理由を説明する直接の引用はありませんが、本の中で彼はジャーナリストに次のように語っています。「映画やテレビの影響で凶悪な犯罪者になってしまった人がいるというが、むしろ暴力的な犯罪は長い間、反社会的な行動をとってきた人が必ず犯すという事実がある」
このことにより、芸術が与えるその犯罪への潜在的な影響についての別の議論が始まりました。これは『時計じかけのオレンジ』が公開50周年を迎えた2021年に、東京で起きた列車襲撃事件に影響を与えた『ジョーカー』のように、芸術が与える犯罪への潜在的な影響についての議論が現在も続いています。明快な答えはありませんが、キューブリックは『時計じかけのオレンジ』についての決定に非常に固執していたため、1999年に亡くなるまで英国でこの映画を再び観ることはできませんでした。
(全文はリンク先へ:Slash Film/2021年12月3日)
今年のハロウィンに起こった「京王線ジョーカー事件」についても言及があるこの記事ですが、映画『ジョーカー』が今後地上波でオンエアできなくなるのではないか?と報じられていたのも記憶に新しいところです(報じていたのは東スポWebでしたが・・・汗)。
まず、事実として知っておかなければならないのは、『時計じかけのオレンジ』がイギリスで上映禁止になったのは、当局による強制や要請ではなく、この記事にあるように「脅迫によって身辺に危険が迫っていると感じたキューブリック自身によって上映を中止された」ということです。また、その範囲はイギリス国内限定であって(他に上映禁止を自主的に判断した国は存在した)、日本では類似犯罪が発生することもなく、普通に上映されました。実は日本で問題になったのは暴力描写ではなく「性描写」でした。ヘア(陰毛)解禁前の当時、若者がこぞってポルノ映画を観に行く感覚で『時計…』を観に行った、という話を伝え聞いています。今となっては微笑ましい話ですが、黒丸で修正された『時計…』を観て、「ヘアが見えた!」「いや見えない!」と大変話題になったそうです。
しかし、フィクションの暴力描写が実際の犯罪者の心理に及ぼす影響云々の議論については、『時計…』公開時から一向に進歩がないようです。キューブリックは
「私は有害な暴力と、例えば『トムとジェリー』やジェームズ・ボンドの映画のような、いわゆる無害な暴力との全く非論理的な区別に驚く。それらはしばしばサディスティックな暴力を年少の観客に見せているのだ。結論を急いでいうと、どちらも暴力をもたらすとは思わない」
と語り、フィクションの暴力描写が実際の暴力や犯罪に与える影響に関しては否定的です。個人的な考えを言うと、他者に危害を加えるレベルの暴力的性向は、暴力的コンテンツの採取には関係なくその人の中にすでに存在していると考えます(キューブリックと同意見)。ただ暴力的コンテンツは、そういった暴力的性向の人間が暴力犯罪を実際に犯す際に、実行のヒントや刺激を与えてしまう可能性があること、暴力的性向の人間がそれら暴力コンテンツを、自身の暴力犯罪の「(裁判での減刑を狙っての)言い訳」に利用できてしまうことについては憂慮すべきだと思います。犯罪者というのは「俺は悪くない!悪いのは〇〇だ!」と責任転嫁をします(まるで劇中のアレックスのように)。その対象に『時計…』などの暴力的コンテンツは利用されやすいのです。
秋葉原通り魔事件も、京アニ放火事件も、その原因は摂取していたコンテンツにあるのではなく、未成熟な自我とその崩壊にありました。それは(報じられている限りでは)この京王線ジョーカー事件も同じです。彼らに共通する特徴は、その原因を「人のせい」にすることです。このことからも、まずは犯罪者の未熟な精神性を論じるべきであって、言い訳に引用された暴力的コンテンツを安易に批判したり、厳しく規制すべきではありません。キューブリックの言う「(映画の中の暴力が現実の)暴力をもたらすとは思わない」とは、この点をはっきり認識すべきと指摘しているのだと、私は思います。
