【考察・検証】キューブリックはなぜ『2001年宇宙の旅』の美術デザインを手塚治虫に依頼したか?また、もし参加していればどうなっていたか?を検証する

同じ1928年生まれの東西の天才クリエーター二人。もしこの二人のコラボが実現していたら・・・と夢想するが、果たして結果は?

 1964年12月末、キューブリックは『2001年宇宙の旅』の美術監督への依頼の手紙を手塚治虫に送ります。しかし、当時『鉄腕アトム』で多忙だった手塚は当初は乗り気だったものの周囲の猛反対でこれを断念し、その旨キューブリックに手紙を書きます。翌1965年1月初旬、キューブリックから「残念だ」という旨の返信が届き、二人の手紙のやり取りは終わります(詳細はこちら)。この話は手塚が証拠の手紙を見せることができなかったこと、手塚が1964年を1963年と間違えて覚えていたことなどから「手塚のホラ話」として当時は全く信じられていませんでした。それに加えて手塚の描く「子供っぽい未来感」と、完成した『2001年…』に於けるディテールまでこだわり抜いたリアルな世界観とのギャップがあまりにも大きかったことも影響したのではないかと思います。現在ではこの話は「事実」と確定していますが、では、キューブリックは手塚(『鉄腕アトム』)のどこが気に入って美術監督のオファーをしたのかを、事実を列挙しつつ考察してみたいと思います。

(1)ストーリーからの考察

 1965年2月、後に『2001年宇宙の旅』となるSF作品は『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』として記者発表されます。ここでMGMに渡されていた脚本はクラークが1964年のクリスマスにキューブリックに「結末は未定だがそれ以外は完成した」として渡したものであると思われます。つまり、手塚治虫にオファーした段階は脚本の初稿が出来上がった段階と言えるでしょう。その初稿の詳細については不明ですが、初期段階の脚本(小説)の一端はアーサー・C・クラーク著の『失われた宇宙の旅2001』に掲載されています。以下はその一部の抜粋です。フロイド議員(博士ではない)がロボット開発担当のブルーノ博士とロボット「ソクラテス」(後のHAL)の研究室を訪問し、ロボットの説明と人工睡眠のテストの視察を行うシーンです。

 ドアが開いた。ソクラテスはかるがると優雅に歩き、議員団と対面した。

「おはようございます、フロイド上院議員。適応マシン研究所一般ロボット工学部門へようこそいらっしゃいました。わたしはソクラテスといいます。どうぞ最新の成果をごらんください」

上院議員とその同行者たちは目を見張っている。写真ではいくらもソクラテスとその先行モデルを見ているが、じっさいに動き、しゃべるスチールと透明プラスチックの優雅さはじかに出会ってみないことにはわからない。外見はおおよそ人間の背丈や体つきに模してあるものの、異様に人間っぽいというわけではなく、ホラー映画の金属モンスターにあるような剽軽さや不愉快さはない。 ソクラテスの持ちまえのメカニックな美は、独自の物差しで計らなければいけないものだ。

 脚部は大きな円いパッドの上にのり、すべりのよいショックアブソーバー、自在継ぎ手、引っ張りバネの精巧な集合体が、軽い金属のフレームワークに支えられている。一歩踏みだすごとにうっとりするようなリズムで屈伸するさまは、まるでそれ自体に命がそなわっているようだ。

 ヒップから上では-多少の擬人的用語はどうしても避けられない-ソクラテスの体は平凡な筒形で、あちこちに見える検査ふたの下には電子機器が隠れている。両腕は、脚をもっと細くデリケートにしたものだと思えばいい。右の手首から先は単純な三本指となり、ぐるぐると回転する。左手のほうは万能工具で、いろいろと取り揃えた便利な器具のなかには、コルク抜き兼缶切りも含まれる。どうやらソクラテスはあらゆる非常事態に対処できるようだ。
 首から上は顔ではなく、種々のセンサーの集合から成るむきだしのフレームワークである。一台のTVカメラで360度の視野が得られるが、これは四つの広角レンズがそれぞれ四つの方位を向いているからである。人間とちがい、ソクラテスには自由に動く首は必要ない。彼はぐるりをいっぺんに見ることができるのだ。

「わたしはあらゆる宇宙活動用に設計されておりまして」 ソクラテスは説明し、独特のスタイルで身を揺すりながら医療区画のほうへ歩いていく。 「独立した行動もとれるし、本部からでもコントロールがききます。 通常の障害物にぶつかったときや、かんたんな非常事態の判定くらいは、内蔵された知性で楽に処理できます。いまわたしはモルフェウス計画の管理をまかされています」

〈中略〉

「さて、ここがそうです。どうなりとご判断を」

 ロボットに案内されて、すでに一行は広い殺風景な部屋のなかにいた。まん中には宇宙カプセルの実物大模型がいすわっている。長さ六メートル、直径三メートルの円筒形で、 片側にはエアロックがあり、周囲にはポンプや電子機器、記録装置、 TVモニターなどが並んでいた。窓はひとつもないが、内部の全景はずらりと並んだモニター画面で見ること ができる。そのうちの二つには、少々おだやかならぬ像が映っていた―意識のない男二人のクローズアップだ。目は閉じられており、剃りあげた頭に金属のキャップをかぶり、 体には電極やピックアップ装置を付け、二人とも呼吸しているようには見えない。

「眠り姫ならぬ眠り公子ですよ」とブルーノはウィルキンズ下院議員にいった(しかし、 いいながらも戸惑いをおぼえる。どうしてここへ来ると、いつも声を低くしてしまうのか? かりにあの二人が目を覚ましていても、声がとどくはずはないのに)。「左がホワイトヘッド、右がカミンスキーです」

(引用:『失われた宇宙の旅2001』P136~139抜粋)

 読んでいただけたらわかるように、なんとも微笑ましい子供向けマンガのような未来図です。登場する「ソクラテス」なるロボットは『禁断の惑星』のロビーを彷彿とさせます。そしてそれは手塚治虫が描く未来図とも共通することに気がつくでしょう。これなら手塚にオファーがあっても不思議ではありません。ちなみにこの一連のシークエンスは早い段階でボツになっています。


(2)美術デザインからの考察

 以下はリチャード・マッケンナが描いた初期の宇宙ステーションとオリオン号のストーリーボードです。これくらいなら手塚でも描けそうです。

1965年春頃にリチャード・マッケンナが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード


(3)NASA出身のスタッフの参加

 このように、当初はSF空想マンガのような世界観で進んでいた『星々の彼方への旅』ですが、あるスタッフが加入したことにより、究極リアル志向に舵を切ります。それは元NASAのフレデリック・オードウェイとハリー・ラングです。1965年春頃から仕事を始めた二人にとって、『星々の彼方への旅』での科学的根拠のない、単なる空想で描かれたデザインが気に入らなかったに違いありません。キューブリックは二人のコネからもたらされるNASAのリアルな現場のデザインを知り、猛然とリアル志向へと舵を切ったのだと思います。クラークが「(1964年末の)決定稿(と思っていた初稿)が次々とボツにされた」と語るキューブリックの心変わりに、オードウェイとラングの存在があったであろうことは想像に難くありません。

 上記のストーリーボードはロイ・カーノンによって描き直されています。このレベルになると手塚には難しいと思います。ロイ・カーノンは1966年製作のドキュメンタリー『2001年という“未来”(A Look Behind The Future)』に登場しています。

1965年にロイ・カーノンが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード


(4)キューブリックはどこで『鉄腕アトム』を知ったのか?

 『Astro Boy(鉄腕アトム)』はアメリカNBCにより1963年9月7日から全米放映スタート、1965年まで104話が放送されました。キューブリックは1963年秋頃から1965年夏頃までニューヨークのマンションに家族とともに在住、自宅マンションで仕事をしていた時期もあるので、その時に子供が観ていた『Astro Boy』を一緒に観た可能性が高いと思われます。


(5)もし手塚治虫が『2001年宇宙の旅』制作に参加していたら・・・

 『2001年…』の美術部門には有名無名の多くのアーティストが参加しています。キューブリックが手塚にオファーしたのは美術部門のトップではなく、未来メカを描き慣れたリチャード・マッケンナなロイ・カーノンのような美術制作部門のトップの立場としてだった可能性があります。どちらにしてもキューブリックの面接やテストをパスしなければならず(トニー・マスターズも受けている)、もしパスしたとしても全身全霊でキューブリックの厳しい要求に応えなければなりません。あの「エゴの塊」のような手塚治虫がそんな立場を許容するはずがなく、喧嘩別れは必至だったでしょう。

 手塚は『2001年…』参加のオファーをもらったこともあり、手紙の一件以降キューブリックに対してシンパシーを感じ、ニューヨークに行くたびに会いに行ったが会えなかったそうです(その頃はイギリスに引っ越した後だった)。また、手塚作品にもその影響は感じられ、「ファン」というなら「手塚治虫はキューブリックのファンだった」と言えるでしょう。この二人の共同作業が実現することはありませんでしたが、上記の経緯から仲違いを産むことになったであろうことは確実なため、結果的に「実現しなくて良かった」と言えるのではないでしょうか。


(6)手塚治虫による『2001年宇宙の旅』を観た感想

 その手塚は『2001年宇宙の旅』を観た後、このような感想を漏らしています。

 「革命ですよ。あれは。学術的にもそうだし、セットや、とくにメカのデザインは。あれはやらなくてよかったと思った。僕はキューブリックのアイデアではないと思うんですよね。相当しっかりした、いろんな方面からのアドバイザーがいたと思います。それをかなりリアルな、NASAがその頃あったかどうか知らないが、そういうところからの助言があったのではないか」「そこまでやるんだったら僕はやらない方がよかった」

 つまり、「自分がオファーされた時はこんなリアル志向ではなかった」という印象があったからであり、手塚はまさしく「見てきたかのように」現場の変化を言い当てていたのです。


●『2001年宇宙の旅』製作年表(クラークの参加から撮影開始まで)

1964年4月:キューブリックとクラークがニューヨークで対面し、SF映画の構想を話し合う。

1964年12月:スターゲート到着までの全体の筋書きが完成するが、まだ全体の三分の二までで、しかもおおざっぱな下書きに過ぎなかった(以下「初稿」)。

1964年12月末:『鉄腕アトム』を観た(のだろうと手塚は語っている)キューブリックから手塚治虫へ美術監督オファーの手紙が届くが、手塚は多忙でスタッフの反対もあり、この誘いを断る。

1965年1月初め:キューブリックから「残念だ」という返信が届く。

1965年1月末:元NASAのフレデリック・オードウェイと、ハリー・ラングがアドバイザーとデザイナーとしてプロジェクトに参加。

1965年2月末:MGMにより、仮題『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』のとして製作を発表。

1965年春:初稿が次々にボツにされ、クラークは小説(脚本)の書き直しを強いられる。同じ頃、プロダクションデザイナーとしてトニー・マスターズが参加。

1965年4月末:タイトルが『2001年宇宙の旅』に決定。

1965年夏:製作拠点をニューヨークからロンドンへ移動。

1965年10月:未定だったラストシーン(スターチャイルドの登場)が決定する。

1965年12月末:『2001年宇宙の旅』の撮影がロンドンで開始。


●余談

 余談ですが手塚治虫のご子息、手塚眞氏は近年「キューブリックは『鉄腕アトム』(手塚治虫)のファンだった」と吹聴するようになりました。ビジュアリストを自称していた頃にはそんなことは一言も言っていなかったにもかかわらずです。氏の態度の変化の理由は定かではありませんが、最近の活動は偉大なる父親の遺産に関わるものが多いと感じます。それが意味するところの明言は避けますが、どちらにしても氏のこの発言は全く根拠がないため「真に受けないこと」を推奨したいと思います。

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