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『シャイニング』のビデオプレイバックを見るキューブリックとジャック・ニコルソン、ヴィヴィアンとスタッフの面々。キューブリックの撮影現場は人が少ないことで有名でだった。

 次のインタビューは、1980年初頭にビセンテ・モリーナ・フォイクスによりキューブリック邸で行われ、『ザ・スタンリー・キューブリック・アーカイブズ』に転載されました。この本はカルト映画監督のアーカイブからの抜粋をまとめ、果てしない完璧さの追求が最重要点の本です。
 
〈中略〉

—スティーブン・キングの『シャイニング』のどこが特に気に入ったのでしょうか?

 この小説はワーナー・ブラザーズの重役であるジョン・キャリーから送られてきたものですが、今まで送られてきたものの中で唯一良いと思った、あるいは好きだと思ったものです。たいていのものは「何ページか読んだからもういいや、時間の無駄だ」と思って読みます。『シャイニング』は非常に読ませれる作品だと思いましたし、プロットやアイデア、構成がこれまで読んだどのジャンルよりも想像力をかきたてられるものだと思いました。この作品から素晴らしい映画が作れそうな気がしました。

—キングの過去の小説はご存知でしたか?

 いいえ、映画『キャリー』は観たことがありますが、彼の小説は読んだことがありませんでした。キングの優れた能力はプロットの構成にあると思います。つまり一度書いて、読んで、また書いて、出版社に送るというような書き方をしているように見えます。彼はほとんど発想にこだわっているようで、それはとてもはっきりしていると思います。

—でも、あの小説を手に入れる前から、ホラー映画を作ろうと思っていたんですか?

 いいえ、映画を作るときにもう1本やりたいと思った作品はありませんし、同時に2つの物語を見つけたこともありません。本を読むときに唯一考慮するのは、自分が手がけた他の作品と非常によく似た映画を作りたくないということくらいです。それ以外は次回作をどうするかという先入観はありません。例えば今、自分が何をしようとしているのかさえ分からないのです。分かればいいのですが・・・時間の節約になりますから。

—これまでの作品では、特定のジャンル(SF、スリラー、戦争映画など)の慣例の中で仕事をしてきましたね。『シャイニング』に惹かれたのは、自分のキャリアの中で新しいジャンルの法則を探る機会を得たからですか?

 私が思うに、このジャンルに関する唯一の法則は説明しようとしないこと、起こったことに対してきちんとした説明を見つけようとしないこと、そして目的は不気味さの感覚を生み出すことである、ということです。フロイトは不気味さについてのエッセイで、不気味さという感覚は芸術において人生よりも強力に表現される唯一の感情であると書いています。そして偉大な巨匠、H・P・ラヴクラフトのエッセイを読んだのですが、彼は「何が起こるかを説明しようとしてはいけない。起こることが人々の想像力、不気味さ、不安や恐怖の感覚を刺激する限りは」と書いています。そして、それ自体に明らかな内的矛盾がない限りは、いわば想像力(空想、驚きなど)の積み重ねであり、この感覚の領域で働くことなのです。またこのような物語の独創性は、最終的に観客が楽しむものだと思っています。観客は物語が進むにつれて何が起こるのかが明らかになり、物語の大きな展開を予想できなかったのに、最後には騙されたとも思わないという大きな満足感を得るのです。

—脚本を担当したダイアン・ジョンソンとはどんな人ですか?

 彼女はとても優れた小説家で、5、6冊ほど本を出しています。その中の一冊に興味を持って彼女に話を聞き始めたら、彼女がカリフォルニアのバークレー大学でゴシック小説の講座も教えていることを知りました。彼女と一緒に脚本を書いたら面白そうだと思い、実現しました。これが彼女の最初の脚本です。

—この映画では、小説に対してかなり多くの変更が加えられています。登場人物の何人かは良い意味で単純化され、超常現象や疑似心理の側面はほとんど排除され、基本的なホラー要素さえも削除されています。これらはすべて私にとって小説からの大きな変更点です。もちろんこの映画は、純粋なホラー映画として多くの人に見てもらえますが、このジャンルの従来の基準から抜け出して、何か違うものを作ろうとしたのでしょうか?

 あなたは本から多くの恐怖が削ぎ落とされたと言いますが、私はそれには同意しません。実のところ子供(ダニー)が壁に飛び散った血を見るシーンと、雪遊びをしているときに大きな排水管で小さな音を聞いたとき以外は、本の中よりも映画の中に恐怖があると思います。みんなそう言っていますよ。例えば、本では誰も殺されませんよね。

—ええ、でも、動物の姿に刈られたトピアリーの庭への行き帰りはすべて排除されていますよね・・・。

 それだけです。最後に黒人のコック、ハロランがやってくると、このトピアリーの動物たちは彼を止めようとしますが、本から失われたのはその点だけです。

—そして主人公たちの関係やホテルでの孤独感、作家としてのジャックの挫折・・・こうしたことが映画では確かに重要となってきますが、本ではそれほどでもないんですね。

 小説でキングは似非キャラクターや似非心理学的な手がかりを入れようとしていますが、小説に書かれているようなキャラクターのエッセンスは確かに保持されていると思います。唯一の変更はウェンディを母親として、妻として、より信じられるようにしたことです。小説の中でもこの物語の心理的なダイナミズムはあまり変わっていないと言えるでしょう。キャラクターが単純化されたというのは、明らかにより明確になり、雑然とはしなくなります。それだけです。単純化されたと言ったのは、まさにその意味で、明確化されたのです。例えばジャックのキャラクターから、彼の家庭生活に関するやや煩雑な言及はすべてなくなりましたし、それは良いことだと思います。ジャックの父親の飲酒問題やウェンディの母親について、キングが自意識過剰なまでに「重く」ページを割いているのを、観客が見過ごすとは思えないからです。私にとってはそんなことはまったく関係ありません。なぜジャックがそうなったのかを説明しようとする、心理的な手がかりを入れすぎるというケースもありますが、それは本当に重要なことではありません。

—そうですね。この小説を読んでいると、なぜあのような恐ろしいことが起こったのかを説明しようとしているように感じられますが、それは間違っていると思います。同時にあなたは本作で(エドガー・アラン・)ポー、特に『赤死病の仮面』への多くの言及を避けています。実際、あなたの映画はポーの影響を完全に逃れ、特にその結論において、より(ホルヘ・ルイス・)ボルヘスに近づいていると私は信じています。私にとっては、これは小説からの大きな転換点です。

 キングのクライマックスはジャックがダニーと対峙し、ダニーが「あなたは僕の父ではない」と言い、ジャックがボイラーに行ってホテルが爆破されるというものでしたから、最も大きな変化は映画の最後の30分間です。ダイアン・ジョンソンと私が行った最も重要なことは、エンディングを変更し、今お話に出たような路線に重点を移すことでした。ウェンディが医師にジャックがダニーの腕を折ったことを話すとき、彼女はとてもいい顔をして話しているのがわかりますが、何か恐ろしいことが起こったに違いないと気づかされるのです。例えば支配人のアルマンがジャックに「奥さんと息子さんはどう思う?」と聞いたとき、「なんて関係のない質問なんだ!」と思っているような目をして、笑顔で「彼らは気に入るだろう」と言うだけなんです。つまり、キングが一生懸命に込めた意識と同じものを、少なくとも無意識のうちに与えてくれる、ちょっとしたポイントがたくさんあると思うんです。ポーの言葉や「赤死病」の引用は正しいのですが、その必要はないように思います。彼は、この小説が文学のいちジャンルとして価値があることを皆に示すことに、気を使いすぎているように思えました。

—俳優とは普段どのように仕事をされているのですか?撮影現場で俳優にアドリブをさせるのが好きなのでしょうか?

 どんなに丁寧に書いたシーンでも、初めてリハーサルをすると全く違うものになるんです。またアイデアの重みがアンバランスであったり、当たり前すぎる、はっきりしないなど、リハーサルで書き直すことが非常に多いのです。そうすることで俳優の能力も、もしかしたら俳優の弱点も最大限に生かすことができると思うんです。俳優がやっていないこと、あるいは明らかに演れないことがあれば(『シャイニング』では彼らはとても素晴らしかったので、そんなことはありませんでしたが)、自分では思いつかなかったアイデアや可能性に、突然気づくことができるのです。監督によっては、シーンをスケッチすればそれが実際に機能することを見つけることができる、と言っているのを読んでいつも感心しています。私の脚本の欠点かもしれませんが、紙の上ではどんなに良くても実際の現場で俳優と一緒になると、書いたことを忠実に守っていても、可能なことを最大限に生かしきれていないことにとても気づかされるんです。また実際にリハーサルを行い、映像にする価値のある何かが起こっているところまで行く前にショットを考えたり、撮影方法を考えたりすると、そのシーンで起こりうる最も深い結果に立ち入ることができなくなることがよくあります。

—あなたはいつも、映画制作のすべての段階を完全にコントロールしようとします。この几帳面なコントロールについて、ひとつ、ふたつ、気になることがあります。ひとつは、あなたの映画のアートディレクションに関することで、『シャイニング』は特にそうです。

 まあ、そうですね。例えばこの映画では、美術監督のロイ・ウォーカーが1カ月かけてアメリカ中のホテルやアパートなど、参考になるようなものを撮影してきました。何百カ所も撮影したはずです。そして気に入った写真をもとに、製図技師が写真から作業用のスケッチを描きました。ただし縮尺は正確に、そこにあるものをそのままに似て非なるものにしました。写真撮影の際には、定規を持って現場に立ち、縮尺を把握することが重要です。例えば映画の冒頭で彼らが住んでいるアパートは、とても小さな部屋と狭い廊下、そして少年の寝室にある高さ約1.5メートルの奇妙な窓がありますよね。誰もが実際に見て、少し違っているように見えることを知っているものをデザインしようとするのは、まず愚かなことです。だからホテルの中にある住居や彼らのアパートのようなものは、とても醜く、デザインの欠落があり、建築家なしで実際に物が作られているようなものであることが重要なのです。また、建築家が手がけた美しい部屋も大切に保存されなければなりません。確かにアートディレクターにこのホテルのデザインをさせるよりも、舞台装置やオペラのセットのように見えないようにすることはほとんど不可能だと思いますが、何もかも本物に見えるものを用意する必要がありました。

 また、ホラー映画でよく見られるようなドラマチックで嘘っぽい照明ではなく、自然光を光源としたドキュメンタリー映画のような照明が、物語を信じさせるために非常に重要だと思います。カフカやボルヘスが、バロック様式ではないシンプルなスタイルで、幻想的なものをごく日常的な方法で表現しているのと同じです。そしてセットにおいては非常にリアルであること、そして建築的に非常に面白くないことがとても重要だと思います。でも本物に見えなければなりません。セットの細部はすべて実際の場所の写真を丹念に写し取ったものです。例えば赤いトイレは、アートディレクターがアリゾナ州フェニックスのホテルで見つけたフランク・ロイド・ライトのデザインのトイレです。色も何もかもそっくりなんです。せっかくプロポーションが整った本物のトイレがあって、しかも面白いトイレがあるのに、なぜ(新たに)デザインしようとするのでしょうか。

 セットを作るなら、自然光をシミュレートする可能性を残しておくことは非常に重要です。たとえばシャンデリアはすべて特別な配線が必要でした。1000ワットの電球を低電圧で使用しているので明るいのですが、温かみのある光なのです。このホテルの色彩や他のすべてが暖かいのは、1000ワットの電球を低電圧で発光させているためなのです。窓から差し込む日光は100フィートの長さの半透明の裏地、高さ30フィートの大きなセットで模倣されています。その裏側には1000ワットの電球が750個ほどあり、窓から差し込む柔らかい光が昼間の光のように見えるよう、まさに人工的な空のようでした。だから昼間は本物のように見えるわけです。このような配慮は非常に早い段階から考えておかなければなりません。なぜならそれはセット作りの一部であり、照明はセットのデザインの非常に早い段階で統合されなければならないからです。

—もう新しい企画を考えているのでしょうか?

 いいえ、アイデアが湧いてくるのを心待ちにしているところです。

(引用:CINEPHILA & BEYOND : An interview with Kubrick By Vicente Molina Foix




 以前ご紹介したこちらの記事のインタビューの数ヶ月前のインタビューだと思われます。内容も似通っていますし『シャイニング』製作の経緯やラヴ・クラフトのエッセイの件も本人の口から語られています。キューブリックの場合、どの時期のインタビューもほぼ同じことを繰り返し語っていて、ブレがありません。このことからかなりの早熟で、人生の早い時期から自我や自己を確立し、早い段階で映画製作の方法論やスタンスを明確にしていたことが伺えます。キューブリックは天才とよく言われますが、早熟であることももっと語られてもいいのでは、と思っています。

 小説『シャイニング』をキューブリックは気に入ったと語っているのですが、このインタビューによるとトピアリーなどの恐怖描写、父子の対立と和解、ポーへの言及とホラー小説の地位の向上、ジャックやウェンディの心理的な背景という、おそらくキングが「重要」だと考えている部分を「不要」だとしてバッサリ切り捨てていることがよくわかります。これじゃあキングが文句を言い続けるはずで、「キューブリックはホラーをわかっていない」と批判するのも頷けます。ですがキングは「ホラー(小説)はわかっているかも知れないが、映画を全くわかっていなかった」ことが自身が監修したTVドラマ版『シャイニング』で露呈してしまいます。TVドラマ版『シャイニング』のビジュアル面の酷さは、続編『ドクター・スリープ』の映画化でさえそのビジュアルを採用しなかったということで、キング自身がそれを証明することになってしまったほどです。

 キューブリックは「唯一の変更はウェンディを母親として、妻として、より信じられるようにしたこと」と語っていますが、これは「原作のウェンディのように自立した機知に富んだ女性なら、ジャックのようなダメ男とはとっくに離婚しているはず」というキューブリックの考えによるものです。そのために気弱で隷属的なウェンディにするべく、シェリー・デュバルがキャスティングされたのですが、これについては「キューブリックがそう考え、判断した」という以外に言いようがありません。最終的にはウェンディは生き残るので、単に「弱い女」だけではなかったわけですが、キューブリックの映画にレベッカ・デモーネイのウェンディが出演している、というのはやはり想像できないでしょう。

 キューブリックは「監督によっては、シーンをスケッチすればそれが実際に機能することを見つけることができる、と言っているのを読んでいつも感心しています」と語り、スケッチ、つまり絵コンテでシーンを作り、決めてしまうことに(皮肉っぽく)懐疑的な見方をしています。キューブリック自身は絵が下手だったので、シーンのアイデアを探るのに美術監督(ソール・バスやケン・アダム)に絵コンテやストーリーボードを描かせることはあっても、それで全てを決めてしまうようなやり方はしませんでした。このインタビューで語っている通り「紙の上ではどんなに良くても実際の現場で俳優と一緒になると、書いたことを忠実に守っていても、可能なことを最大限に生かしきれていないことにとても気づかされる」・・・つまり、あらかじめ脚本や台本、絵コンテでシーンを決めてしまっては、現場で良いシーンを最大限探求することを妨げてしまうと言っているのです。これはキューブリック独自と言ってもいい撮影のプロセスで、他の監督にはおいそれと真似のできない領域です。なぜならこれを実現させるためには、撮影期間や予算の権限を監督本人が完全に掌握していなければならないからです。現在のハリウッド資本で映画を撮る映画監督で、これを実現できている人はどれくらいいるのでしょうか?それぐらいキューブリックの映画製作は自由で創造的だったのです。

 インタビューではセットや照明についても語られていますが、つまるところ映像にリアリティ(現実感)が欲しいということだと思います。キューブリックは映像の不自然さを嫌い、ストレートな表現を好みました(リアプロジェクションについては当時の技術レベルの限界と、クロマキー合成の不自然さよりリアプロの方がマシだという判断、そしてコントロールが難しくなるロケ嫌いがあったのではないかと想像しています)。オーバールック・ホテルがロケではなく全てセットだと知った時はいささか驚いたものです。キューブリックは全てをコントロールできる状況下において、映像にする価値のある何かが起こるまで、撮影現場でのトライ&エラーを繰り返したいという希望がありました。そのためには脚本よりリーハーサル、台本よりアドリブ、ロケよりセット、そして何より撮影現場での自由度が重要になってきます。キューブリックが「脚本が完成するのは撮影が終わった時」と語るのは、このように「いかに撮影するに値することを起こし得るかに挑戦する(そのためテイク数が多くなる)」という目的があるからなのです。(記事中にある「『シャイニング』では彼らはとても素晴らしかったので、そんなことはありませんでしたが」は、キューブリックなりの俳優に対するフォロー、気遣いなんでしょう)

 こういったキューブリック独自の映画製作のプロセスや方法論は、キューブリックやキューブリック作品を語る上で欠かせない知識です(映画の感想や印象を語り合う分には知らなくても構わないと思いますが)。残念ながら映画評論家や有識者、文化人と言われる方々でも、これらの知識を前提に評価、評論、論評している人をついぞ見かけません。よく見かけるのは記事を書く知識が不足しているため、自分の得意分野とキューブリック作品との薄い共通項を見つけ出し、無理やり論をこねくりまわしてくっつけて、編集部から言い渡された文字数をなんとか埋めているという駄文だけです。管理人が「一次情報にしか興味がない」というのはそういう理由で、当ブログで一次情報とそのソースを掲載しているのも同じ理由です。

 キューブリックの方法論は確かに数々の名作を生み出しましたが、必ずしもどの監督にでも当てはまるものではないし、多かれ少なかれ各々の監督にはその数だけの優れた方法論があるでしょう。ただ他の監督が王道の方法論から大きく逸脱していないのに対し、キューブリックの方法論が異端で独自すぎるだけです。そのためにキューブリックは数々の批判や誤解に晒されてしまい、本人も反論しなかったこともあってそのまま世間一般に定着してしまった感があります。ですが逝去からすでに20年が過ぎています。もうそろそろ「偏執的なキューブリックの狂った撮影現場」などとアクセス稼ぎの小見出しに使うのではなく、「キューブリックは何故そうしたのか?」「キューブリックは何を目指していたのか?」を知り、語り、理解すべきだと私は考えます。

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