【関連記事】「日本語吹替版がもっとも素晴らしかった」と…トム・クルーズを演じ続けた森川智之が叶えた“念願の対面” 『声優 声の職人』より#1
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| 森川智之(wikipedia) |
とんでもない現場でのかけがえのない経験
鬼才キューブリックの横で一緒に作品を作ってきた人ですから、面接の迫力もすごいものでした。開口一番、「ミスター森川はキューブリックをどう思う?」「この映画をどう思う?」という話になるんです。僕なりにがんばって答えましたが、今思えば特別なことが言えたわけではありません。
その後、演じるにあたってのディスカッションをしました。そのとき彼から求められたのは、「トムとまったく同じことをしてくれ」というものでした。トムがどのように役を理解して、どのように演じて、何を思ってしゃべっているのか。それをゼロから理解して、そのうえで演じてほしい、と。
僕は、「とんでもない現場に来てしまったなぁ」と思いました。それまでにも吹替えの仕事はたくさんしていましたが、この現場はすべてがちがいました。
2時間から2時間半の映画の吹替えを収録するとき、僕らは10時に集まり、お昼休憩をはさんで20時から21時くらいには終わることが多い。遅くなる場合があっても、せいぜい1日がかりです。
しかし、『アイズ ワイド シャット』は僕だけで1週間かかりました。もちろん1週間といっても、丸々1日収録した日もあれば、他の仕事の都合で5時間しか収録できない日もありました。ただ、5時間かけて台本1頁しか進まなかったり、前回の収録が気に入らないからといって同じ時間をかけて撮り直したりということもありました。
レオンはアクターズスタジオで学んだ役者でもあります。だからか、僕に対しても同じ役者として接していました。そして、要求もとても高度なものでした。
一般的にはスタジオの中にマイクが3本ほど立てられていて、3、4人で同時に収録するんですが、『アイズ ワイド シャット』では1人ずつ、しかも動きを交えての収録でした。吹替えの声優は声だけを演じればいいのがふつうですが、ここではそうじゃないんです。
ベッドシーンだとスタジオにベッドが置いてあり、トムと同じような格好をしてセリフを話すんです。ベッドに横たわり、映像を見て、マイクに向かって話す。いくつものことを同時にやらなくてはいけなくて。僕はしまいにセリフをすべて覚えてしまいました。覚えないとできなかったからです。
セリフをしゃべると、レオンが言うんです。
「おまえ、今何を考えてしゃべったんだ」
「日本語版がもっとも素晴らしかった」
声優は平面的な絵に向けて声をのせるので、立体的なお芝居をする傾向があります。だからデフォルメをより効かせた演技になる。それが聞く人に上手と思わせる話し方です。でもそれは、下手をするとどこか定型的というか、枠にはまったようなものに聞こえてしまう。
僕はそこから出たいなという気持ちがありました。
この『アイズ ワイド シャット』では、とにかく「リアル」な演技を求められました。その辺でみんながしゃべっている姿を切りとったようなリアルな演技。それは、キューブリックがトムに求めたものでした。トムも仕事には徹底的にこだわって人任せにしない俳優です。その2人のこだわりがぶつかりあってできた演技。そしてレオンは、それと同等なものを僕に求めてくるんです。
今までのような演技ではまったく太刀打ちできないわけです。とはいえキャスティングはもう決まっているし、降りるという選択肢もあり得ない。
だからこそ、僕も下手に刃向かおうとせず、今まで培ったキャリアという鎧もすべて脱ぎ捨てて、裸のままレオンに演技のすべてを委ねることにしました。
レオンに徹底的に委ねたからこそ、それまでの声優人生にはなかったタイプの仕事ができたんだと思います。こんな仕事の仕方は、それまでもそれ以降も他にはありません。僕にとって役者としてのターニングポイントになった経験でした。
それによって自分がもっと上に行くことができたと感じています。そしてこれ以降、人が嫌がるような役、大変な役を率先してやりたくなりました。アニメのオーディションも、なぜかよく受かるようになりました。そのせいか、この頃は知り合いに「ビデオレンタル店に行くと森川ばかりだ」と言われていましたね(笑)。
「たぶんこう求められているんだろうな」というのが、もう一段深いところで理解できるようになったからかもしれません。言葉の壁がある中で意思疎通をはかる苦労をしていたせいか、相手の断片的な言葉や、完璧ではない言い回しに含まれている大事な何かを、そっとすくい上げるようなことができるようになったというか。
自分の中ではこの『アイズ ワイド シャット』を境に、何かが変わった気がしています。
レオンは各国語版の吹替えを作る作業を最終的にはロンドンで行っていました。トムも一緒に各国語版をチェックしたそうです。そのときにトムが「日本語版がもっとも素晴らしかった」と言ってくれたと聞いています。
以前にNHKの番組で僕を特集してくれたことがありまして、レオンと連絡を取ってくれました。当時彼が僕宛てに送ってくれた手紙を紹介したり、トムも使ったというアフレコ用のマスクをプレゼントしてくれた話を披露しました。本当に宝のような思い出です。でもそのマスク……大切にしまい過ぎて、今どこにあるか分からないんです(笑)。
〈以下略〉
(引用元:文春オンライン/2022年7月17日)
声優の森川智之氏が『アイズ ワイド シャット』で、キューブリックのアシスタントだったレオン・ヴィタリにみっちり仕込まれた話は当ブログでも何度か採り上げていますが、これもその内のひとつですね。我々キューブリックファンにしてみれば、キューブリックが憑依したかのようなレオンのこだわりっぷりは「あーあ・・・」と思ってしまいますが、森川氏にしてみれば大変だったけど貴重で刺激的な体験だったようです。この「大変だったけど貴重で刺激的な体験」というのはキューブリック作品に携わった関係者が口を揃えて漏らす感想であることは、もはや説明の必要はないでしょう。
ところでこれには後日談があり、アリス役のニコール・キッドマンの吹き替えを担当した佐々木優子さんによると、アフレコ予算オーバーで担当者が左遷されたそう(詳細はこちら)。まあこの「左遷」が文字通りの意味なのか(単なる異動の可能性も)、その原因が『アイズ…』のアフレコなのか、そもそも話を盛っているのでは? という可能性もあるので、話半分に聞いておくべきでしょうね。
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