【作品論】『時計じかけのオレンジ』(原題:A Clockwork Orange)
一般的に「難解」と言われるキューブリック作品の中でも、この『時計じかけ…』は例外的にシンプルで明快な作品だ。だが、未だにアレックスが罰らしい罰を受けずに復活するラストに違和感を覚え、それを批判する人も少なくない。これではキューブリックも浮かばれない。
初公開当時「激しすぎる」と批判された暴力シーンも、現在の感覚からすれば、たいしたことはない。なのに今日に至ってもその描写に激しい拒否反応が噴出するのは、所謂「映画のお約束」の枠を越えているからだろう。つまり、今日の暴力描写はいくらそれが激しくても、「これはフィクションですよ」というお約束の中でなされている。しかし『時計じかけ…』にはそれがない。まるで、実際に暴力の現場を目撃しているかのような映像感覚…。それはひとえにキューブリックの天才的なカメラワークのなせる技だろう。
やがて、アレックスの暴力三昧の日々はあっけなく逮捕という結末を迎える。しかしここでも暴力、暴力、暴力の嵐…。警官によるアレックスへの暴力、刑務所内での暴力(アレックスがホモ囚人を殴り殺すシークエンスはカットされてしまったのだが)、そして、権力者が一般大衆に対して行う最も恐ろしい暴力「洗脳」。かつて暴力で権力者を困らせたアレックスは、きっちりとその暴力で権力者に仕返しされてしまうのだ。
アレックスにとって生きる喜びと自由意思の表現であった暴力(ついでに性欲とベートーベンも)を奪われ、見た目は有機物でも中身は機械人間、つまり『時計じかけのオレンジ』にされてしまう。そんな無力な彼を、かつて虐げた連中が暴力で仕返しをする。揚げ句、反体制小説家はアレックスを自殺に追い込み、それを政府批判の世論操作に利用しようと企てる。
だが、その企ては失敗に終わり、今度は逆に権力者が広告塔として利用するために元の暴力的な人格に戻される。つまるところアレックスは暴力で逮捕され、暴力で洗脳され、暴力で解放されたことになる。しかもアレックスを取り巻く連中(権力側、反政府側、それにかつて虐待した老人でさえ)もそれぞれ暴力でそれに応える。このうんざりさせられるほどの「暴力の連鎖」。これこそがこの作品の核心であり、それを持ちあわせているのが「人間」という存在なのだ。
ラスト、暴力性を取り戻し、ベートーベンの第九を聴きながら、性夢を夢想し、陶酔するアレックス…。これを単純な善悪の二元論で解釈してしまうと「アレックスが無罪放免なのが許せない」となってしまう。だが、残念ながら人間は聖人君子ではない。アレックスは多かれ少なかれ、等しく皆の心の中に住んでいるからだ。
人間の暴力性と権力者の横暴、それに魂の救済であるはずのキリスト教でさえ暴力性を内包している(聖書を暴力・エロ本扱いにするなんて…)と告発したキューブリック。そのキューブリックは公開当時、マスコミの一大「暴力賛美映画」批判キャンペーンにより、本人はおろか家族まで脅迫されるという事態に追い込まれてしまう。それは奇しくも『時計じかけ…』で描かれている世界が現実のそれと何ら変わらない、という事を証明する事にもなった。もちろん、公開から35年以上を経た現在でも、この作品が突きつけてくるテーマは全く色褪せていない。むしろ、テロや犯罪が世界中で蔓延する現在の方が、より説得力を持ってこの作品を観ることができるのではないだろうか。
尚、作品としては間違いなく星5つの評価だが、原作の素晴らしさに負う所も大きいので、その分マイナス1とした。原作の独自解釈・分解・再構成がお得意のキューブリックしては、素直に映像化しているところからも、キューブリックがこの原作を高く評価していた事が伺える。