【作品論】『ロリータ』(原題:Lolita)
現在使われている、「ロリータ・コンプレックス(ロリコン)」という言葉は、「従順で大人しい、可憐な聖少女」的な意味合いで使われる事が多いようだが、原作よると、単純にそういう意味ではなく「狡猾で小生意気で口の悪い、蠱惑的な少女」といったニュアンスで定義されている…と思われるのだが、とにかく主人公であるハンバート氏の偏執的な少女への視線や妄想が凄すぎて、とてもじゃないが一般人には理解不可能。歩き方や仕種、話し方から肌のツヤ、揚げ句の果てにテニス・ウェアから覗く脇毛まで(謎)、彼の定義に当てはまらないものはニンフェット(妖精)とは呼ばないし、興味もないらしい。
この映画はよく「ミス・キャスト」と評されることが多いようだが、原作を読んでみると一概にそうとは思えない。(原作のナボコフはこの映画を気に入っていたらしい)長篇の小説だが、よくまとめられて映像化されていて、ナボコフのファンだったというジェイムズ・メイソンも、ハンバートの「いっちゃってる」さ加減を上手く演じていた。それにピーター
・セラーズの怪演も見逃せない。TV作家なる怪しげな職業の業界人は、キューブリックが生涯忌み嫌った、ハリウッドに巣くう胸くそ悪い連中を戯画化した姿だとも言えるだろう。
とにかく一方的に妄想に溺れるハンバートの間抜けさ加減は、可笑しくもあり、情けなくもあり、憐れでもあるが、「男の恋愛」とは、はたから見ればその対象は誰であれ、以外とこんなものかもしれない…。そんなキューブリックの冷めた視線で描かれた「ブラック・コメディ」として観るべきではないだろうか。ハンバートは最後の最後に、妊婦になった一介の主婦姿のロリータを見て、自分が愛していたのは「ニンフェット」ではなく、あれだけ忌み嫌った母親シャルロットの血を確実に受け継いでいる、ロリータという「一人の女性」だったことに気づいてしまうのだが、それが少女の肖像画の頭部を銃で打ち抜く(少女愛からの決別)というラストシーンに象徴されている。ここにも「恋愛に対する男の身勝手な幻想」を打ち砕く、キューブリックらしい「皮肉の一撃」が感じられる。ただ、少しツメは甘かったかも知れない。当時の社会状況とか、タブーを考えれば仕方ない事かとは思うが。
キューブリック自身も後に、「当時の様々な圧力団体の干渉を受け、ハンバートとロリータのエロティックな関係を充分脚色できなかった」と言っている。ロリータも原作の設定より少し年上の少女をキャスティングするしかなかったようだ。しかしこの37年後、『アイズ ワイド シャット』の少女売春婦役にリーリー・ソビエスキーをキャスティングして、この無念を晴らしている。(恐るべき執念…)彼女のような少女系女優がこの『ロリータ』でキャスティングされていたら、さぞかし異様な映画になっていただろう。
近年、例の「ロリータ・ファッション・ブーム」で、この映画のポスターやポストカードを度々街で見かけるようになった。それはそれで良い傾向だとは思うのだが、やはり作品自体も観て欲しい。(この作品には性描写はまったく出てこないので、未成年者や女性でも心配ない)なぜなら、初期のキューブリック作品で最も冷遇されている隠れた名作だと思うからだ。
この作品でキューブリックが皮肉ったのは、いわゆる「ロリコン」ではなく、女性を矮小化し、自分の好みのわくに閉じこめ、束縛しようとする男の独善的な欲望だ。(男自身はそれを「愛」と呼んでいる)その点は決して見誤ってはならない。