【作品論】『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(原題:Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)
笑いの感覚というものは、時代とともに刻々と変化するものだ。昔笑えたギャグに今は全く笑えない、なんてことは日常的に実感する。だが、批判精神に溢れ、鋭く真実を付く「ブラックユーモア」はいくら月日が流れようとも普遍性がある。
いつの時代でもどの場所でも受け入れられるものなのだ。
本作品には「ブラックユーモア」な部分と「コメディ」な部分とが共存している。そして残念ながら「コメディ」の部分は今観るとかなり辛い。マフリー大統領とソ連書記長のホットラインでの会話や、コング少佐が機内で飛ばすジョーク、電話をかける小銭がないと焦るマンドレイク大佐や、撃ち抜かれ、コーラを吹き出す自動販売機などは正直全く笑えない。
だが、タカ派丸出しのタージトソン将軍や、共産主義者の陰謀を真顔で語るリッパー将軍、ナチの亡霊のようなストレンジラブ博士などは、ニヤッと笑った後に背筋が寒くなる。特に全世界が滅亡しようかという事態にまで至っても尚、自国の優位性を説くソ連大使には空恐ろしさを感じずにはいられない。
こういった、ブラックユーモアのセンスは傑出しているのだが、よほど現場のノリがよかったのか、全体的に悪ノリしすぎてしまっている感は否めない。当のキューブリックも暴走気味で、ラストシーンは「滅びた惑星地球から発見されたドキュメンタリー・フィルムを、宇宙人が発見し上映した」というオチにしようと考えていたらしい。そして、そのラストシーン直前に繰り広げられるはずだった最高作戦室でのパイ投げシーンは、撮影まで行われた。だが、さすがにやりすぎだと思ったのか、最終的にはまるまるカットしている。こういったものまで良しとするセンスが現場に満ちていたのだろう。やはり「ブラックユーモア」と「コメディ」の明解な線引きと、それがこの作品の将来をどう左右するかまでは、検討されていなかったのではないかと思う。
また、キャスティングの功罪もあったのかも知れない。特に三役(当初の予定ではコング少佐も含めて四役)で出演したピーター・セラーズは「ブラックユーモア」、「コメディ」両方のセンスを持っていて、その両方に影響力を及ぼしている。ブラックな部分はさすがイギリス人らしく鋭いものがあるが、当時彼は優れたコメディアンでもあったため、そちらのセンスは時の流れに勝てなかったようだ。
ブラックユーモアの傑作として名高い本作だが、初公開から40年もの月日が流れ、残念ながら時の流れに押し流された部分が見られるようになったきた。東西冷戦、キューバ危機など、当時の社会情勢を踏まえて考えても、この「傑作」という評価を、もう一度精査してみる時期に来ているのではないだろうか。