【関連書籍】『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ著(原題:Lolita)
まず、断っておかなければならないのは、この小説が出版された当時(1955年)、「少女愛」という嗜好は全く認知されておらず、更に作者のナボコフや映画化したキューブリックでさえ、それがどういうものなのかはっきりと認識していなかった、という事だ。
この小説がセンセーショナルな話題を呼び、少女を愛する嗜好の持ち主を「ロリータ・コンプレックス(ロリコン)」と呼ぶようになるのだが、時代を経るにつれて、その意味するところは微妙に変化し、現在では「成人した女性と正常な恋愛関係を持てない者などが、支配欲や性欲の捌け口として、自分に隷属する対象を弱者である幼い少女に求め、それを偏愛する」という傾向に陥ってきている。しかし当時、こんな現実が未来に待ち受けていようなどと、ナボコフもキューブリックも想像だにしていなかったに違いない。
もちろんロリコンではなかったナボコフは、この小説を執筆するに当たり、自分の趣味である蝶の収集を、少女の偏愛として置き換えることによって物語を創作している。街から街へ、安モーテルに泊まりながら当てもなく愛するロリータと共に車で旅するハンバートは、蝶の採集でアメリカ中を車で旅した作者自身の姿だ。そしてロリータは、その中でもとびきり美しい(もしくは貴重な)蝶であったに違いない。
それにロリータも決して従順で大人しい、薄幸の美少女などではなく、現在なら渋谷の繁華街でたむろするような、すれっからしの性悪な少女として描かれていて、決してハンバートの意のままになることはない(人間の意向を無視し、気ままに野山を飛び回る蝶のように)。知性も教養も社会的地位もあり、時折フランス語を交えながら文学的に語るハンバートが、他人には理解不能な「ニンフェット」の定義をくどくど説明したり、単なる変態的妄想を雄弁に力説したり、その割には簡単な罠に引っ掛かって地団駄を踏み続ける姿は、なんとも可笑しく、馬鹿馬鹿しく、そして哀れだ。
そんなロリータをやっとのことで捕まえたハンバートだが、すでに美少女の面影はなく、だらしない妊婦になっていて、 あれだけ忌み嫌った母親のシャーロットにそっくりなのにも気付いてしまう。だがハンバートは失望するどころか、自分はロリータを「一人の女性」として本当に愛していたことに初めて気が付くのだ。この皮肉なまでに遅きに失した愛の自覚…。キューブリックはこの点の脚色が甘かった事を後に自ら認め、「もし撮り直す事ができるなら、ロリータとハンバートのエロティックな関係を強調するだろう」と語っている。
文学的で高尚な文体で、妄想の激しい馬鹿で哀れな中年男の生涯を綴るという、この『ロリータ』という皮肉に満ちた物語。タイトルだけで嫌悪せず、是非の一読をお薦めしたい。
※注:上記の書評は大久保 康雄氏の旧訳版のものです。