【作品論】『スパルタカス』(原題:Spartacus)
キューブリックは本作品を全くコントロール出来なかったため、ハリウッドからの逃亡を決意させたという、いかにもアメリカ的な「自由万歳&ラブ・ロマンス」映画。
他のキューブリック作品に慣れてしまっている眼には、「本当にキューブリック?」と疑いたくなるような、おめでたいシーンの連続に辟易してしまう。とにかく、カーク・ダグラスの聖人君子的な演技や、ご都合主義のストーリー展開、出来過ぎた人格の奴隷たちや、お決まりのラブロマンスなど、所詮三文芝居の映像版でしかなく、腹が立つのを通り過ぎてあきれ返ってしまうたけ。
キューブリックは脚本の改訂を求めて、かなり激しくカーク・ダグラスや脚本のドクトル・トランボとやりあったという。だが、赤狩りでハリウッド追放中のトランボの描く「理想的な平等社会と、それを目指す英雄像」と、キューブリックが指向する「暴力と欲望が人間性の本質であり、生きる力」とでは合い入れる筈もなく、結局若いキューブリックが折れてしまう。この時のシコリが元で、ダグラスは自伝でキューブリックの事を「才能あるクソッタレ」と評する事になるのだが、キューブリックもキューブリックで、「この程度の仕事なら、やっつけの片手間でもやってみせる」と言わんばかりに、仕事をサボってスタッフと野球ばかりしていたという話もある。
この映画、 2時間半もの長編だが、『ベン・ハー』や、『クレオパトラ』が流行していた当時らしいスペクタクル感覚に溢れ、現在では完全に古びてしまっている。それを割り引いてもたいして良い作品とは思えず、こんな映画がアカデミー賞を受賞してしまうのだから、「さすがアメリカ」と皮肉のひとつも言いたくなってしまう。
若干30歳のキューブリックにとっては、初の大作カラー作品なので、ここでの経験は後の傑作を産み出すのに、大いに役に立ったと想像できる。もっと重要なのは、この大作を興行的な成功に導いた事によって、ハリウッドからの更なる信頼を得、「有望な新人監督」から、「偉大なフイルムメーカー」としての礎を築き、資金をハリウッドに依存しつつも、自由に映画を創れる環境を手に入れた、ということではないだろうか。