【スペシャリレポート】オーディトリウム渋谷でついに『恐怖と欲望』を観た!
偉大なアーティストというものはいつの時代も、そしてそのジャンルも関係なく、ファースト・ステップもやはり偉大だった・・・。そんな感想を持ちながら渋谷の街を後にした。
ここにはキューブリックの若さと、映画に対するエネルギーが凝縮し、渦巻き、爆発している。まるでハンブルク時代のビートルズのように。シングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビューする前、ビートルズ(メンバーはジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベスト、そしてスチュワート・サトクリフだ)はドイツのハンブルクのクラブで激しいビートと大音響でまるでパンクバンドのような演奏をしていた。薄暗く汚い場末のクラブで荒くれ共や酔っぱらいを相手に、その時にできる最大限度でエネルギーを放出していたのだ。この「初期衝動」による創作エネルギーは、特定の年齢とそれを全開可能な状況が揃わないとなかなか実現できない。またとても厳しい環境下である事も必須の条件である。
バンブルクでのビートルズはステージで寝泊まりし、楽屋はトイレ、ロクな音響や機材もない中、言葉の通じない客を相手にそのエネルギーを爆発させていた。この『恐怖と欲望』もまさにそれで、最低限の機材、スタッフ、素人だらけの役者、そして4万ドル(1,440万円)という極少の予算・・・・ただ劇映画を創るんだ、という初期衝動のエネルギーだけを頼りに、それを隠しもせずキューブリックはそのままフィルムに焼き付けたのだ。凝ったカメラアングル、短く挿入されたインサートショット、ボイス・オーバーの重用は既にこの頃からアイデアとしてあったのだろう、勢い余ってくどいくらいに多用しているのも特徴だ。
ただ、技術的、内容的には非常に稚拙でキューブリックが後に封印したがったのも納得するレベルだ。また、映画制作の基礎的なスキル、経験も不足している事が手に取るように分かる。それを批評し、低評価を下す事は非常に容易だ。
だが、次作『非情の罠』ではとたんにプロらしくなってしまう事を考えると、この『恐怖…』における「若さと荒々しさ」は非常に貴重だ。それはハンブルク時代のビートルズにも共通する「若さと荒々しさ」だ。「ビートルズの前期と後期、どちらが好き?」と聞かれ「どちらでもなくハンブルク時代」と答える好事家も多いように、この若さ故のエネルギーの爆発には抗いがたい魅力がある。キューブリックはその「若さ」を嫌ってこの『恐怖…』を抹消しようと企てた。それはそれで理解できるが、今はこの作品の「若さ」を素直に楽しむべきだろう。それが頑に閉ざした封印をこじ開けてまで鑑賞しようとする我々ファンができる、キューブリックに報いる唯一の方法ではないだろうか。