【考察・検証】キューブリックが多テイクなのは、ルック社カメラマン時代にルーツがあるのでは?という考察
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1949年、ルック社カメラマン時代のキューブリック。Stanley Kubrick(wikipedia) |
キューブリックが映画監督になる以前は報道カメラマン(正確には写真誌カメラマン)だったのは有名な話です。当然ですが使用するカメラはムービーカメラではなくスチールカメラで、主にローライフレックス(詳しくはこちら)を好んで使っていて、写真集『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』(詳しくはこちら)に掲載されている正方形の写真は、ほぼローライで撮影されてものと考えて良いでしょう。
スチールカメラマンが被写体を撮影する際、それがヤラセであれ、ドキュメントであれ、ワンカットしか撮影しないということはありません。必ず複数テイク撮影します。理由は「その瞬間」のベストを求めてということもありますが、絞りを変えてみたり、ライティングやアングル、レンズやフィルターを変えてみたりと技術的な問題もあるからです。キューブリックはルック社時代に「ブツ撮り」もしていますが、どんな簡単な撮影でも露出を変えて数カットは撮影しています。
もちろんキューブリックの存命時はデジカメはありませんので、写真の仕上がりはフィルムの現像が終わり、ベタ焼き(フィルムを大きな印画紙に並べて現像すること。現在で言うところのサムネール)を見るまでは判断できません。この段階になって複数のテイクの中からベストのテイクを選び、ネガを印画紙に大きく焼き付けて、そのプリントを印刷に回すというのが写真誌制作のプロセスになります。
以上のように、キューブリックにとって撮影とは「数多くテイクを撮ってベストのカットをチョイスする」というのは「当たり前の行為」だったのです。ところが映画を撮り始めた当初はテイク数は多くありませんでした。キューブリックは「最初の頃は映画界の古い慣習に従うしかなかった」という旨の発言をしていますがそれだけではなく、予算も時間も限られる中、スチール写真のように「複数テイクを撮ってベストのカットをチョイスする」という行為が現実的に、立場的に難しかったのだと思います。
それが変化するのは『ロリータ』の頃からです。『スパルタカス』で業界内で一定の地位を確保し、それまでの借金生活(パートナーのハリスにお金を借りて生活していた)からも抜け出しました。ハリウッドから離れた(『ロリータ』はイギリスで撮影された)解放感も手伝ったのでしょう、この頃からテイク数が増え始めます。いや、正しく言うならば「本来やりたかったスタイルでの映画製作を始めた」と言うべきでしょう。キューブリックは「映画製作で一番安いのはフィルム代、だからいっぱい撮影しないと」と語っていたそうですが(それを聞いた俳優は震え上がったそう。笑)、その発想の原点は「スチールカメラでたくさんのテイクを撮っていたルック社カメラマン時代にある」と判断するのは当然至極のように思えます。
キューブリックはまた「行き当たりばったり」(クラーク談)だったとも伝わっています。キューブリックは撮影前に完全にプランを練り上げ、その通りに撮影するという方法を好みませんでした。その原点もルック社カメラマン時代にあると考えます。アドリブを好み、俳優やスタッフのアイデアを反映させ、撮影の「現場で起こったこと」をフィルムに収める・・・。これはもはや「コントロールされたドキュメンタリー」というべきもので、それはすなわちルックの誌面と全く同じ(ルックは事実を伝える報道誌ではなく、ヤラセ込みで紙面を面白くする「写真誌」だった)ということだと思います。
結論:キューブリックが多テイクなのは、ルック社カメラマン時代にスチールカメラで撮影していた方法を採用したから。その理由は、より良い作品に仕上げるために現場のアイデアやアドリブを撮影に反映させ、その後ベストのカットをチョイスしたかったから。
ちなみにキューブリックは撮影したすべてのフィルムを現像させていたそうです(通常は現像するまでもない、明らかなボツテイクは現像しない)。それはカットを切り貼りしてベストのフィルムを作るためだったのですが、音声のテイクだけ他のテイクから持ってくる、ということまでしていたそうです(だから時間がかかる)。そこまでこだわるからこその「多テイク」なのですが、画家や小説家や音楽家が同じように多テイクを繰り返し、ベストテイクをチョイスしても批判されないのに、なぜか映画業界だけが「一発撮りが至高」と言われ、多テイクは批判される傾向にあるように思います。もちろん「スケジュールが~」「予算が~」というのも理解できるのですが、そのプレッシャーがあまりにも強すぎるために作家性が摩滅させられているのだとしたら、キューブリックのような作家性あふれる映画監督が将来登場するのは絶望的、ということになってしまいます。であるならば、キューブリックが自身の作家性を発揮するために採用した「多テイク」という方法を、短絡的に「偏執的だ!」「狂気だ!」と揶揄するのではなく、もう少し作家側の心情を理解し、配慮してあげる環境が必要ではないか、と私は思います。