【考察】『非情の罠』をハッピーエンドにしたキューブリックの思惑
キューブリック初の商業長編劇映画『非情の罠』。キューブリック作品で唯一わかりやすいハッピーエンドで終わっているが、なぜ本作だけそうなったのか、若干の推察を含めつつ考察してみたい。
この作品、主人公のデイビィは一貫した意思の持ち主のキャラクターなのに、ヒロインのグロリアはいまいちその意思が見えてこない。つまりシーン、シーンでいちいちその印象が異なるのだ。まず二人が初めて会話を交わす、ラパロに襲われた直後のシーン。助けてもらったデイヴィに何故かよそよそしい態度をするグロリア。この時点ではどうやらデイヴィに好意は抱いていないように見える。だが翌朝再びデイヴィが部屋を訪れると二人は身の上話をし、少し打ち解けたようだ。するとグロリアはいきなり一緒にシアトルに行く事を了承してしまう。ちょっと違和感があるが、まあ嫉妬深いラパロよりどう見てもデイヴィの方がマシなので、そんなものかと思って観続けていると、ダンスホールの事務所で執拗に迫るラパロに愛想つかしたかのような態度を取るので、やっぱりデイヴィに惚れたのかとひと安心。でもその後二人が落ち合ってもお金が手に入ったことを喜び合うでもなく、割と淡々としてたりする。
するとグロリアが誘拐され、デイヴィが救出に向かうのだが、逆にデイヴィも捕まってしまう。ここでグロリアはこの映画最大級の愛の言葉をデイヴィではなくラパロにつぶやくのだ。しかもキスまで。もちろんグロリアにとっては必死の命乞いなのだろうが、デイヴィにはっきりと愛の意思を示さないままにこれだから、ものすごい違和感がある。結局ラパロは死にグロリアは警察によって救出、デイヴィも正当防衛で無罪放免となり駅でグロリアを待つことになる。さすがのデイヴィもグロリアの本心に懐疑的になり「彼女は来るのだろうか、いや来やしない」などと呟いたりしている。結局最後は彼女は現れてハッピーエンドとなるのだが、なんだか釈然としない。それもそのはず、グロリアの意思が見事にバラバラだからだ。
実はキューブリックは当初、この映画をバッドエンドのつもりで撮っていた。だからプロットに歪みが生じてしまったのだ。ここからは推察だが、グロリアはラパロにはうんざりだが、だからと言ってデイヴィにも惚れていたという訳ではなく、ラパロの許から助け出してくれさえすればそれで良かったのではないか。そのためにデイヴィを利用したに過ぎなかったのだと。つまりラストシーンで結局グロリアは現れず、デイヴィが一人が汽車に乗って終われば、ちょっとシニカルでほろ苦い、通じ合っているようで実は通じ合っていないという、いかにも都会の男女にありがちな思惑がすれ違うさまを観ることになり、それをキューブリックはやりたかったのではないだろうか。そう考えると違和感だらけだったグロリアの意思も理解できるし、あまり評判の宜しくないこの作品も十二分に「キューブリック的」だと納得できる。
しかしキューブリックは興行成績を気にし、結末をハッピーエンドに変えてしまった。(監禁から助かった後、デイヴィとグロリアのラブシーンを予定していたが、グロリアを演じたケーンの抵抗にあって取りやめになっている)だが誰がそれを責められるだろうか。資金集めから撮影、編集、アフレコ、上映の交渉まで全て一人でこなしていたキューブリックにとって、制作費の回収と自身の知名度アップは作品の結末をねじ曲げても達成したかった目標のはず。それは次作の制作における自身の自由度に直結するからだ。
本作がキューブリックの思惑通りに稼がなかったのはその後の証言で明らかだ。だが納得はではきなくても公開した事がきっかけとなってハリスと知り合い、少なくとも資金面での苦労はかなり軽減する。キューブリックは「妥協のしどころ」を心得ていた。それは『スパルタカス』でも『シャイニング』でも同じだ。そんなキューブリックを完全主義者のレッテルでしか語れない評論家やファンは、もうそろそろ目を覚まして欲しいものだ。