【考察・検証】映画ではなく、絵画に近いキューブリック作品
キューブリックの諸作品を観るにつけ、所謂一般の「映画」のそれとはかなり趣きを異としている事がわかる。誤解を怖れず言葉にすれば、一種の「組み写真」というか、一つのテーマを連続した写真で見せる「写真展」というか、まるで「映画を観る」というより、「作品を鑑賞する」という表現の方がしっくりくるようにさえ思われる。
だがそれは、常に「退屈」「平板」との評がつきまとう事を覚悟しなければならない。キューブリックはそれを知りつつも、画の持つ力を信じ、「画で語る」という方法論を実践した。何故なら一般的な映画が持っている「俳優や台詞の面白さ」や「演出された映像の迫力」といった特徴は、感情に訴える事はできても、感性に訴える事はできない、と考えていたからだ。
キューブリックは「映画は演劇を映像に収めたものではない」と発言している。だが多くの映画は演劇の延長でしかなく、親しみやすい演技、説明的台詞の多様、紋切り型の演出等に終始している。キューブリックはそんな「演劇的映画」を撮ろうとはしなかった。それは演出家でも俳優でもなく、カメラマン出身だという出自を考えれば、ごく自然な帰結だろう。
キューブリック作品は「演劇的映画」として鑑賞してはならない。スクリーンに映し出された圧倒的なその画に、美術館にいるような緊張感を持って対峙しなければならないのだ。