【作品論】『アイズ ワイド シャット』(原題:Eyes Wide Shut)
キューブリックが映画を創り初めて約半世紀。その間、キューブリックは常に戦い続けてきた。ある時は映画会社、またある時はマスコミ、それに時には無理解なスタッフや俳優達。だが、彼は観客だけは信じていた。「必ずメッセージは伝わるんだ」と…。
本作はトム・クルーズとニコール・キッドマンという、実生活でも夫婦(公開当時、現在は離婚)という俳優がキャスティングされている。またエロティックでミステリアスという前評判もあり、観客は様々な妄想を膨らませ映画館に出向いた。だが、そこで見せられたのは、間抜けな金持ちの医者が、間抜けな罠に引っ掛かり、火遊びどころか振りかかってきた火の粉をおたおたと振り払い、妻の元にほうほうの体で逃げ帰るというなんとも冴えないお話だった。
観客は失望した。自分たちが「見たかった」ものを「見せてもらえなかった」からだ。しかし、そういう彼らは一体何を期待していたのだろうか?クルーズとキッドマンの濃厚なラブシーン?クルーズが性豪よろしく数々と女を抱きまくる姿?清楚なキッドマンの淫乱な実態?
キューブリックはそんな観客の低俗な妄想に満ちた安易な期待を、この作品の中で見事な形で戯画化し、提示してみせた。すなわち、「ビルが妄想にとりつかれうろたえる滑稽な姿を描く」という形で。つまり、このビル・ハーフォードというキャラクターこそ、我々大衆そのものだ、と批判しているのだ。
妄想に溺れ、妄想で行動し、妄想に暮らし、妄想に悩み、妄想で時間を浪費する。そんな我々大衆に対し、「いいかげんに目を醒ませ!」と痛烈にメッセージを送っているのだ。また、二時間の妄想を垂れ流し、大衆から金を巻き上げる現在のハリウッドに対しても「映画は現実逃避の慰みものではない!」と批判の矛先を向ける。キューブリックにとって、ハリウッドの映画産業システムは最期の最期まで敵だったのだ。
アリスはすなわちキューブリックだ。股間と妄想を膨らませた男の誘いを一蹴し、意味深な夢の話で夫を試す。それに劇中常にビルに向けられた冷ややかな視線…。そして極め付けは何と言ってもラストシーンで、ビル(すなわち我々大衆)に突きつけた「ファック」という捨て台詞。(これがダブルミーニングと気付かない論客のなんと多いこと!)鏡の中から冷ややかにアリスがこちらを見るポスターの図案</a>は、決して偶然ではない。そこにはキューブリックの慎重な意図が隠されているのだ。
この作品は、我々を映す「鏡」だった。その鏡に自らの姿が映し出されているとも知らず、低俗な期待と失望を露にする無自覚な大衆…。『アイズ ワイド シャット』。目は開いていても、(心の)目は閉じている</a>。このタイトルを選んだキューブリックに、大衆に対する深い失意と決別を感じざるをえない。
「生きているだけで幸運だ」。ビルが手にしたニューヨーク・ポスト誌</a>にはそう書かれていた。まだまだ生き続けたかったキューブリックが他界した今、死んだように生き続ける我々は、一体何をすべきなのか?本作を表層でしか理解せず、的外れな論調を書き立てたマスコミは勿論、「意味不明」「期待外れ」「気取った映像の三流映画」と思考停止に陥った多くの観客に、本作は猛省を迫っている。