【作品論】『フルメタル・ジャケット』(原題:Full Metal Jacket)
「キューブリックは人間ドラマを描けない」とは、よく目にする批評だが、それは彼の初期作品を観ればすぐに間違いだと気づくだろう。『突撃』では戦争の矛盾と軍隊の腐敗を、重厚な演技と圧倒的な演出力で見事に描ききっている。だが本作では、前半の訓練所のパートから、後半の戦場のパートまで、登場人物の誰一人として感情移入することなく、淡々、粛々と物語は進行してゆく。それはまるで、戦場ドキュメンタリーを観ているかのようだ。
だが本作は「戦場ドキュメンタリー」ではない。あえて言うなら、「戦場ドキュメンタリーように演出された戦争映画を批判した映画」なのだ。物語の途中、TVのクルーが兵士達をあくまで「戦場演出の一部」として扱ったり、そのどこかしらベトナムらしくないベトナムの風景(単にキューブリックのロケ嫌いによるものだが)や、ジョーカーの墓を前に父親がジョーカーの日記を読み上げる、といった情緒的なエンディングの排除など、徹頭徹尾、空々しさが全編を覆っている。それは「想像していた通りの戦争っぽい戦争」とインタビューに応えるカウボーイの台詞が象徴するように、「いくらリアルな描写でも、戦争映画なんて所詮絵空事に過ぎない」ということを実証してみせたかったのではないだろうか。また広報誌「スターズ・アンド・ストライプ」の上官は露骨に記事の改竄・捏造をジョーカーに指示する。結局我々一般大衆にとって戦争とは、紙とペンで書かれたものか、TVや映画の中にしか存在しないものなのだ、と言わんばかりだ。
ベトナム戦争は、TV時代に行われた初めての戦争だった。そこでは、戦場のニュースフィルムが「真実」として伝えられ、それを政府はプロパガンダとして、メディアは反戦運動に利用した。ペンと紙の時代より、はるかにリアリティをもって伝えられる「戦争の真実」…。だがそんなものはどこにも存在していなかった。パイルやジョーカーやカウボーイ、そしてベトコン少女は、権力側の思惑とは関係なく、ただ戦場で浪費されていくだけの一個の銃弾でしかない。その残酷なまでに冷徹な認識だけが「戦場に存在する唯一の現実」だったのだ。
『フルメタル・ジャケット=完全被甲弾』。敵を粉砕すべく作りだされた、単なる大量消費財。単なる大量消費財に人格や意志は存在しない。キューブリックは物語の前半で「フルメタル・ジャケット」の製造過程を、後半ではその浪費のされっぷりだけを描き、それに何がしかの意図や意義を加えるのを慎重に避けている。報道カメラマン出身という特異な経歴を持つキューブリックは、メディアの欺瞞に気付いていた。だからこそ、「演出」という力を行使し、「戦争を意味付ける」事を、この作品でき然と拒否しているのだ。
「戦争とは銃弾で人間を肉塊に変える事。それ以外は全て欺瞞だ」。自身が一番数多く取り上げた戦争映画というジャンルの到達点として、キューブリックはシンプルに、冷徹に、力強くそう言い放っている。