【考察・検証】『シャイニング』におけるテニスボールの意味の変遷が示す、キューブリックの「アドリブ指向」
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ダニーがテニスボールを持つカットされたラストシーン |
『シャイニング』で霊の象徴的な存在のひとつとして登場したテニスボール。実は当初の脚本では「ジャックは仕事もせず遊んでいる」となっているだけでした。そこでニコルソンは「俺だったらこんなだだっ広いところにいたらこうするね」とテニスボールで遊び始めたのです。つまり当初は霊的存在象徴でも何でもなく、ニコルソンのアドリブによるヒマ潰しでしかなかったのです。
このように「撮影現場で「何か」が生まれる瞬間」を好むキューブリックは、これをストーリーのキーポイントに使う事を思いつきます。そして「誰もいない筈なのに転がってくるテニスボールが、ダニーを237号室に誘う」というシーンが作られます。また、カットされてしまいましたが、矢などが並べられたオブジェから幽霊がボールを投げ返すシーンも撮影されました。その極めつけが削除された病院シーンです。ここではテニスボールが決定的な役割を果たしています。つまりホテルの霊の象徴の一つであり、それをアルマンは知っていた、という非常に重要なシーンです。
しかしキューブリックはこのシーンを公開後すぐにカットしてしまいました。その結果、テニスボールはホテルで起こる霊的現象の一つ、という位置づけに落ち着く事となりました。
こういった経緯を振り返ってみて、そういえば以前、似たような事をキューブリックはしていなかったか?と思いませんか。そう『博士の異常な愛情』での「パイ投げシークエンス」です。キューブリックはこれも二週間もかけて撮影したにも関わらず、まるまる削除してしまいました。それは『シャイニング』で病院シーンをカットしたのと同じ動機、つまり「やりすぎ(説明しすぎ、くどい)と感じた」だと思います。
以上の事実から、キューブリックはアドリブを好む反面、現場のノリで少し暴走してしまうきらいがあったように思います。好きな事には熱中しやすい気質も影響しているのでしょう、冷静に判断ができるようになるには少し時間を置かないといけなかったようです。
もちろんそんな自分をよく知っていたキューブリックは、スニーク・プレビュー後にカットするのを常としていました。それは試写をすることによって自作を客観的に見やすくなり、どこを切ればいいか判断がしやすくなる効果を期待してでの事ではないでしょうか。小説でも絵画でも楽曲でも、自分で何かを創作しているクリエーターなら、誰しもこの経験はしているかと思います。自作の善し悪しを判断するのは非常に難しいですからね。
撮影現場でのアドリブを好み、そのノリによって少々熱くなりすぎてしまう・・・こうして事実を繋ぎ合わせてゆくとずいぶん人間臭い監督です。この監督のどこが「冷徹な完全主義者」なんでしょうか。世間一般の完全主義者という短絡かつ一元的な決めつけはそろそろ卒業しても良い頃だと思っています。