【考察・検証】原作小説『バリー・リンドンの幸運(The Luck of Barry Lyndon)』のあらすじと映画版の違いを検証する

絶版になっている角川文庫のサッカレーの小説『バリー・リンドン』(Amason)

●小説『バリー・リンドンの幸運』のあらすじ

 (自称)上流だが没落貴族の家系に生まれたレドモンド・バリーは気性が荒く、喧嘩っ早い性格だった。父親が病死するとますます生活に困窮するようになったが、プライドだけは高かった。15歳のバリーは年上の従姉ノーラに激しい恋心を抱くが、ノーラは子供扱いして相手にしない。そのノーラに求婚してきたのはイギリス軍の将校ジョン・クィン大尉だった。ノーラ家の借金の返済を申し出たクィン大尉にバリーは激しい嫉妬心を燃やし、決闘しろと迫る。その結果はクィン大尉の死亡だった。事が表面化する前にバリーは母親の金を手にダブリンへ逃れるが、そのダブリンで詐欺師夫婦にまんまと所持金全額を詐取される。無一文になったバリーは日銭を求めて仕方なくイギリス軍に入隊、大陸に渡る船に乗る。そこで巨漢のトゥールと喧嘩になり、同じ船内で決闘の立会人をしていたフェイガン大尉と再会する。フェイガンからクィン大尉の死はバリーを村から追い出すための狂言だと聞かされ、バリーは激怒しつつも犯罪者にならなかったことに安堵した。

 大陸に渡ったバリーはミンデンの戦いに参加するが、軍隊の中で後見人となってくれていたフェイガン大尉が戦死する。バリーは軍隊のみすぼらしくて野獣のような生活に嫌気が差し、重傷を負ったフェイケナム中尉が担ぎ込まれた農家で、傷により気の触れた中尉と入れ替わることを企てる。その策略に農家の娘リシェンが協力した。フェイケナムの身分証明書を手に偽の中尉となったバリーだが、プロセイン軍の大尉にあっという間に見破られ、乱闘の末取り押さえられてしまう。囚われの身となったバリーはプロセイン軍の捨て駒の兵士としていくつか戦いに参加させられる。そこでもなんとか生き残り軍功も挙げた。戦争が終わると所属の連隊はベルリンに駐屯する。バリーは隊長であるポツドルフ大尉に取り入り部下になり、同じアイルランド人であるシュヴァリエ・ド・バリバリを監視するように依頼される。バリバリは行方不明だった伯父であることに気づいたバリーは伯父と結託し、伯父は甥を密航させる手配をしてベルリンから逃げ出す。二人はドレスデンで合流、賭博師としてピッピ伯爵と共謀し大金をせしめるが、ピッピに売上金を持ち逃げされる。二人は今度はマニ伯爵に狙いを定め、その許嫁である資産家の娘イーダ女伯爵を掌中にしようと試みる。バリーは自分の優れた容姿と高貴な立ち振る舞いが女性を虜にすると信じて疑わない。だが高利貸しのユダヤ人襲撃事件に巻き込まれ、この目論見も頓挫する。

 バリーはスパでリンドン卿と懇意になる。リンドン卿は自分の若き妻であるレディ・リンドンを「不幸の元凶」と罵り、レディ・リンドンも高慢で鼻持ちならない女性だった。リンドン夫人に侮辱されたバリーは夫人を見返すため、リンドン卿の後釜に座ることを考える。まず子息であるブリンドン卿の家庭教師であるラント氏に接近、ラントを通じてレディ・リンドンと手紙のやり取りをする仲になる。その策略は功を奏し、バリーはレディ・リンドンの信頼を勝ち取った。それを面白くないと考えるリンドン卿は痛風に悩みながらも生きながらえ、それを見たバリーはしばらくその座は開かないと判断、イギリスに戻るレディ・リンドンを見送る。しかしその後リンドン卿が亡くなったことを新聞で知る。好機と考えたバリーはアイルランドに帰還、貴族社会で名を挙げた賭博師として故郷に錦を飾る。バリーはレディ・リンドンとその財産を我がものにすべく行動を開始。まずライバルであるジョージ卿を騙し結婚を諦めさせた後、謀略を巡らせストーカーまがいの行為までしてレディ・リンドンを追い詰める。そして念願叶ってバリーはレディ・リンドンと結婚する。レドモンド・バリーはバリー・リンドンと成ったのだ。

 結婚後、バリーは夫人とともにイギリスのハックトン城に移り住み、夫人はバリーの子、ブライアンを産む。だが前夫の子ブリンドン卿は反抗的で、レディ・リンドンは醜く肥え太り社交界には顔を出さず引きこもりになる。バリーはレディ・リンドンを城の奥へ追いやり、自身は城の改築、競馬や博打に興じるなど羽振り良い生活を享受する。また、地元の有力者を後見人に下院議員にも当選する。反抗的なブリンドン卿はアイルランドにいる母の元に送り出した。バリーはブライアンの将来を案じ、爵位を得るためにクラブズ卿と親交を結ぶ。クラブズ卿にそそのかされ、バリーは勃発していたアメリカ独立戦争に歩兵一個中隊を編成させられる。血気盛んなブリンドン卿はそれに志願したいと申し出た。

 母はアイルランドにとどまり、一族の領地をしっかりと守っていた。初恋の相手ノーラはすっかり落ちぶれ、職をなくした夫クィンの就職先の面倒を見て欲しいとバリーに懇願する。母に預けたブリンドン卿は相変わらず反抗的で、手に負えない状態だった。ブリンドンはイギリスに戻るが、そこでもあいかわず反抗的な態度を崩さず、侮辱的な「靴事件」でバリーだけでなく夫人にも恥をかかせる。激昂したバリーはブリンドンを鞭打つが、屈辱に耐えかねたブリンドンは置き手紙を残して失踪する。失踪先はアメリカに派兵されたイギリス軍で、ブリンドンは志願兵として軍に参加していたのだ。

 一方のバリーはスキャンダルや悪評だらけのイギリスに嫌気がさし、夫人とパリへと渡る。パリでの生活はバリーを一応満足させたが、その満足のためには借金を重ねなければならなかった。イギリスに戻っても苦難は続く。再び選挙が行われ、大金を投じたにも関わらずバリーは落選してしまった。議員の職を失い、爵位を授かる可能性もなくなったバリーに請求書が押し寄せる。仕方なくいったんアイルランドの実家に引き上げるが、そこに朗報が舞い込む。なんとブリンドン卿が戦死したというのだ。バリーは実息であるブライアンがリンドン家の正式な相続人になったことを喜ぶ。しかしバリーに最大の不幸が襲う。言うことを聞かず、我がまま放題に育った愛息ブライアンが父の言いつけを守らず勝手に乗馬し、落馬事故で死んでしまったのだ。愛息の死に夫人は精神を病み、それを知った夫人の前の恋人ジョージ卿は夫人の救出を画策するがバリーに露見し阻止される。

 バリーの悪行の噂はアイルランドどころかイギリスも席巻し、信用も失墜していた。借金もできず困窮していたバリーに、夫人とともにロンドンに赴き、夫人の自由意志の元で借用書にサインをするなら金を貸してやってもいいと言う知らせが届く。罠だと言う母親の忠告をはね除け夫妻はロンドンに渡る。バリーは警察に拘束され、夫人と内通していたジョージ卿から言い渡された条件は、夫人を自由にしバリーが二度とイギリスの地を踏まないと約束するなら、300ポンドの年金を支払うと言うものだった。バリーはその条件を受け入れた。

後日談:バリーはその後ヨーロッパで賭博師家業に戻ったが成功せず、イギリスに舞い戻り、ジョージ卿と夫人との密通の手紙を証拠にジョージ卿をゆすり、大金をせしめようとしたが成功しなかった。戻ってきたバリーにリンドン夫人は心動かされるが、すんでのところで阻止された。実は戦死したと思われていたブリンドン卿が生きており、イギリスに帰ってきたのだ。バリーは逮捕され、フリート監獄に収監された。母親はそんなバリーに付き添っていたが、バリーはアルコール依存症による譫妄症で死亡した。



 キューブリックは『ナポレオン』の映画化で、ヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争の時代を初めから終わりまで全て描こうとしましたが、これは予算が膨大になることが予想され断念します。その代わりに選んだのがフィクションであり、英仏の7年戦争が舞台のサッカレーの小説、『バリー・リンドンの幸運(The Luck of Barry Lyndon)』(邦訳のタイトルは映画と同じ『バリー・リンドン』)です。小説と映画との違いは上記のあらすじを読めばわかりますが、キューブリックによって大胆にエピソードが省略され、直線的なストーリーに再構成されています。前半のダブリンでのエピソードは全てカットされ、最低限必要なシーンは場所を移して撮影されました。これは18世紀のダブリンの街をロケで撮影するのは不可能なことと、船内や船上のセットを組む時間と予算を回避したかったからだと思われます。

 中盤、大まかには小説通りにストーリーは進みますが、ピッピ伯爵やイーダ女伯爵のエピソードは全カットされました。また、映画ではポツドルフ大尉を戦闘中に救助したことになっていますが、小説では単なる上官として登場します。ちなみにこの戦争中のエピソードには血なまぐさく荒っぽいエピソードが多く含まれています。バリバリは小説では生き別れだった伯父として登場しますが、映画では単なる同郷人です。キューブリックはおそらく「都合よすぎる偶然」が多すぎると思ったのでしょう。イギリス軍を脱走するために欺いたフェイケナム中尉も後に「偶然」再開しますが、これも採用しませんでした。

 後半、やっとレディ・リンドンが登場しますが、夫人の関心を惹くプロセスは映画では「一目惚れ」の一言で終わっています。小説では脅迫・強要めいたやりかたでその座を手にします。結婚後の放蕩ぶりは同じですが、小説でのブリンドン卿は例の「靴事件」の後に家出し、後日談まで登場しません。ブライアンの性格も映画とはかなり異なり、粗野で乱暴で我がまま放題な悪童として描かれています(それを肯定的に見て、成長を喜ぶバリーの姿は自身の出自の卑しさを示唆している)。ここで舞台はイギリスからアイルランドの母の実家に移るのですが、映画ではそのままイギリスのリンドン邸での出来事に移しかえられています(後半のアイルランドロケが脅迫で不可能になった影響もあるかも知れません)。ですので、母親がリンドン邸に住み着く設定に変更されました。

 おそらく、この辺りでキューブリックは小説通りに映画化していたら、いくらエピソードをカットしても予算も時間も足らないと判断したのでしょう。ブリンドン卿を演じていたレオン・ヴィタリに「これから脚本を書き直して君のシーンを多くするから」と告げます。このことで映画の終盤はブリンドン卿のバリーへの復讐物語的な様相を帯びてきますが、小説では単にバリーの自滅でその地位を失うところが異なります。リンドン夫人との別居と年金を条件に、バリーは国外追放という映画と同じ結末を迎えますが、小説はそれを突きつけるのが夫人の前恋人、ジョージ卿であることが異なります。

 小説は後日談がありますが、それは映画ではカットされています。小説でも蛇足感はあるし、キューブリックが「ラストの盛り上がりに欠ける」と考えてあの決闘シーンを作ったのだとしたら、その判断は妥当だと思いました。

 キューブリックは本作の三人称の脚色について

「サッカレーは不誠実な観察者(つまりバリー本人)を使い、そうすることで読者はさほど難しくなく自分自身でレイモンド・バリーの目に映る人生のあるべき真実を判断できることとなる。そういうテクニックは小説では極めて上手く機能したわけだが、映画で(中略)スクリーン上の現実とバリーが語るところの真実を並置すれば、コメディとして機能しかてしまいかねず、しかし『バリー・リンドン』はコメディとして作られるべきものだとは私は思わない」(引用:ミシェル・シマン『KUBRICK』)

と語っています。ただ、小説には多分にコメディ的要素はあり(バリーの自意識過剰っぷりな割にはすぐ騙される愚鈍さ)、他の登場人物も欲にまみれた悪人ばかりです。結局のところ上流社会だ貴族だと言いながらも誰もが醜悪な人間であることには変わりなく、そんな人間の間を上手く立ち回って成り上がろうとする、これまた醜悪な人間であるバリーの冒険譚を本人の一人称(ボイスオーバー)で映画化すれば、これはまるっきり『時計じかけのオレンジ』の過去版と言われかねません。キューブリックはそれを避けるために三人称のナレーションを採用した可能性もあるのではないか、という指摘をここでしておきたいと思います。

 キューブリックの大胆な脚色はこれにとどまらず、小説にある数々のアクションシーン(喧嘩や乱闘、戦争中の略奪、暴行など)を映像化を最小限に抑え、ズームを多用した実に落ち着いた、流れるようなカメラワークに終始しています(例外的に殴り合いシーンの手持ち撮影や、戦闘シーンでのトラッキングショットがある程度)。キューブリックが18世紀の雰囲気をそのままカメラに映しとることに固執していたことは撮影監督であるジョン・オルコットのインタビュー(詳細はこちら)を読めばわかりますが、そんな緻密で神経を使う撮影方法は俳優が動き回るアクションシーンには不向きです。『バリー…』が非常に静謐な印象の作品になったのは、キューブリックが原作にあるアクション・冒険要素よりも、映像美と本物の歴史的建物で撮影するというリアリティを優先させたためだと思います。キューブリックは欲しい映像のためなら原作を大胆に改変する監督なのです。

 そしてキューブリックはある一文をエピローグとしてこの物語を締めくくりました。実はこれはキューブリックのオリジナルではなく、小説中、バリーが幼い頃に聞いた中傷合戦に関して漏らした言葉「前述の人びとが存命であり、たがいに憎み合っていたのは、ジョージ二世陛下の時代なのである。善人と悪人、美女と醜女、富者と貧者の別を問わず、いまや彼らはひとしなみに塵に帰ってしまった」(小説17ページ)が元になっています。キューブリックは小説に大胆な脚色や変更を加えたのにも関わらず、この一文がこの小説全体を巧みに言い当てていると判断し、採用したのでしょう。つまり「描き方は異なるが、テーマやコンセプトは小説と同じ」ということです。

結論:以上のことから、映画『バリー・リンドン』が小説と大きく異なる印象の作品になったのは、
(1)原作をそのまま一人称で映画化すると『時計…』と似た印象になってしまうと判断したから。
(2)長編の小説の映画化なので、エピソードを大胆に省略し、ストレートにつなげる必要があった。
(3)18世紀の正確な映像化を目指したため、激しい動きのカメラワークが技術的に難しかった。
(4)撮影期間と予算が超過したので、エピソードを改変し終盤をシンプルにまとめたから。
(5)描き方を変更しても、小説のテーマとコンセプトは伝えられると思ったから。


 現代の目から見ると、この小説『バリー・リンドンの幸運』はご都合主義が過ぎ、無駄なエピソードも多くリズムが悪く感じるかもしれません。しかしキューブリックが望んだ18世紀の貴族の生活の描写や戦争シーンもあり、そしてなによりも全体に漂う皮肉めいた、誰一人として善人が登場しない(それぞれがそれぞれの欲望を叶えるために相手を出し抜こうと画策する)物語は、キューブリックが好みそうな小説だと言えると思います。小説はバリー自身が獄中で執筆した回顧録に注釈(これがいわゆるツッコミになっている)が入っているという体裁ですが、このことが『ロリータ』にも共通する(ハンバートの獄中回顧録)シニカルでブラックなユーモアを醸し出しています。キューブリックは「コメディとして作られるべきだとは思わない」と語っていましたが、この真意は「作っている映画が(ブラック)コメディばかりだと言われかねない」という危惧があった可能性もあります。小説通りに映画化すると、前述した『時計…』にも、さらに『ロリータ』にも似てきてしまいます。キューブリックは「同じことは繰り返したくない」監督です。この小説『バリー・リンドンの幸運』を読むと、キューブリックがあのような大胆な脚色をしたのは、キューブリックの嗜好からも、製作の経緯からも必然だったという思いを非常に強くしました。

考察協力:Gakiさま

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